こちらより。

強調は引用者。

# toku俺達のように運転手をやっているようなバカには、ココのコメントで議論されている事がいったいなんなのか?全くわかりません。その点、内田樹氏のblogは言いたい事が素直に感じます。内容についての詳細の話も宜しいですが、批判するのであれば、批判のポイントを一点、それを面白おかしく納得できるテクストにどうぞして下さい。ここを読んで思うのは、マジョリティvsマイノリティというかなり前近代的な仕組みで、資本主義を題材に自分達も特権階級になりたいという色目、です。』
# id:sivad 『左様ですか。僕もそう賢くはないのでわかりにくくて申し訳ないです。内田氏の立場に共感される方がおられるのもまた当然だと思いますので、それはそれでいいのではないでしょうか。コメント欄はそれぞれ自由なおしゃべりですので、あまり全体を突っ込まれても困ってしまうのですが。。もう少し具体的な問題提起をしていただければ意見を出せるかと思います。あるいはエントリ本体やリンク先の方々の文章をお楽しみください。』
# toku 『議論ではなくて、馴れ合いということですね。人の悪口は盛り上がりますからね。それなら良いです。僕には、自分の知性や意見を対外的に開陳する事によって社会構造上の特権階級へ上り詰めたい人々の集まりかと思いました。また、貴殿も運転手と同じく賢くないという事は、すなわち、職業として運転手とは賢くない人間の集合体という認識ですね。ここにヒエラルキーは無いでしょうか?あるでしょうか? 私の質問です。』



自分で「俺たち運転手のようなバカ」と複数形で語っておきながら、相手がそれを受けた謙遜の返事をすると「運転手はバカだと? 階層を認めるんだな」。▼自己矛盾というより、卑屈さの問題だ。こうなってしまったら、もう「いちゃもんをつける」のが目的の書き込みだから、どうしようもない。
しかし、この人物像と発言内容は、私自身の先日からの「変化の予兆」や議論とリンクし、様々なことを考えさせられた。ひょっとすると、劇的な変化の前兆ではないかとすら感じている*1。 少しずつメモしてみる。

    • 上記引用部分だが、あのコメント欄のやり取りを「まったく分からない」という人物から、内田樹氏の発言は支持されている。こういう「実感レベル」の支持は、やはりきわめて重要な政治的ファクターではないだろうか。重要なことを考えていても、「面白く」なければ、浸透力はない。▼内田氏の発言には、魅惑と反発を同時に感じる。そうして、内田氏を的確に批判する発言には、興味深いものが多い。「興味深い見解を引き出す触媒」としては、内田氏がやはり重要なのではないか。――とても失礼だとは思うが、今はそのように感じている。




*1:妄想か。

「外部」と「階級」

経済条件のみならず、知性においても「自分は外部に放逐されている」と思っている人間は、卑屈な嫌味を言うことで相手に影響力を行使しようとする(だが、無視されればそれまで)。 一般向けイベントで「ひきこもり」について話すと、同様の発言に直面することがあるが、彼らは生活のため、自分の周囲の現実(外部)に徹底的に振り回されており、つまり外部を拒絶することができないポジションにいる。外部に忙殺される被害者意識に苦しむ人間は、外部を遮断しても生きていられる(と見える)人間が許せない*1。 嫌味によって相手を傷つけ、なんとか自分自身をそうした連中の「外部」として提示しようと試みる(無力感に苦しむ本人からすれば、現実的に言って戦略はこれしかないのかもしれない)。 ▼末端の労働者は、自分が誰かの「外部」になることを許されていない。上司や顧客の「外部」になるとは、すなわち叱責やクレームの対象になることだ。こうした人物にとって、「社会に内部化された人々」および「彼らに牛耳られた現実」――つまり《外部》――は、隷従の対象である。自分が手綱を握って呼びかけたり、自立的に再構成を試みる対象ではない。能力的にもポジション的にも、そのような力は自分にないと考えているし、現にうまくいかない。 ▼あたりまえだが、この話は私にとって他人事ではない*2。 私の自暴自棄ぶりは、外部を拒絶できず、手綱を握る希望がなく、継続的に自己運営する可能性がないように思えるところから来ている。極端な無力感が、四六時中私を押し潰す。この発想は、しかしたぶん妄想だ*3――そう思うところで、立て直しを図っている。
「特権階級にいる」とは、「自分の都合に合わせて外部を拒絶できる」ということではないか。外部に徹底して晒されざるを得ないあり方が「最底辺」。ひきこもり的意識とは、外部を適度に遮断することができないということ。あまりに無防備に晒されすぎているので、外部との接触は即「傷」になってしまう。適度な遮断こそが、外部との交渉的接触を可能にする(これについては、訓練が要る)。 ▼受身の姿勢で、あまりにも愚直に晒されすぎたかつての私。自分の間抜けなお人好しぶりに腹が立つ。



*1:以前も書いたが、こうした嫉妬心は、あまりにも破格に自分より恵まれた境遇の者には向かわない。「自分と似ているが、自分より少しだけ恵まれて見える奴ら」が、最悪の嫉妬対象になる。

*2:運転手であれ何であれ、継続的に仕事をできている時点で、私には手の届かない存在に見えてしまう。

*3:単なる主観ではなく、様々な客観的条件に規定されているとはいえ、抜け道はあるはずだ・・・。

義務付けられた「滅私奉公」

ある人物*1から、大意次のように言われた。

「『五体不満足 (講談社青い鳥文庫)』の乙武洋匡は最低だ。本を書いて何千万円も儲け、社会的に注目されて、それを自分のためだけに使っている。身体障害者や業界のために還元しないで、自分だけテレビに出て、障害者とは何の関係もない仕事をしている。許しがたい奴だ。――上山さん、あんたも同じじゃないだろうな」

私はその場で、「人の人生を何だと思ってるんだ!」と激怒した。
「お前は《ひきこもり当事者》として、様々なチャンスを得た。だからお前の残りの人生はすべて、引きこもり業界に捧げなければならない」。――嫉妬とやっかみでしかないこういう暴力的見解を、しかし私自身も、自分に課しているところがあった。▼「貢献」の方法は、直接的貢献ばかりではない*2。 そもそも「ひきこもり」というテーマに、私の人生が縛られていいはずもない*3(これは、杉田俊介さんが一般的になさっていたご指摘だ)。 ▼「ひきこもり問題に貢献するために、《当事者・経験者》という属性に固執したまま関わる」のみならず、「ひきこもり」というテーマから独自の課題を析出し、そこに「当事者」であることとは距離を置いて、あるいはその事実とは無関係に、取り組むこと。あるいはそもそも、「ひきこもり」とは何の関係もない業界に飛び込む努力をしてみること。――それは私にとってのみならず、他の当事者・経験者にとっての課題でもあるはずだ(各人が当事者的に巻き込まれているテーマが何であれ)。
ただもちろん、各人の抱えた問題の緊急性や、対人接触でしか事態を改善できない局面というものはあり・・・・。これについては、「向いている人が従事する」、つまり「分業」の問題と言うしかない。私自身も、自分に何ができるかまだよくわかっていない。



*1:この人物には、「一緒に本を書いてテレビに出よう」など、わけのわからない一方的な言動を取られ、それらを断ると、私の発言を勝手に捏造して解釈し、「上山は、文部科学省から直接仕事を請け負っているような詐欺師的発言をして、信用を得ている」などと言いがかりをつけられた。▼私が文部科学省と直接コンタクトをとったことは一度もないし、当ブログや取材・イベントはもちろん、私的な会話ですら、そのようなことを匂わす発言をしたことは一度もない(断じてない)。ある取材の中で、「文部科学省の認可団体を名乗るところから仕事上での協力関係を打診していただき、本当にありがたい話で、ずいぶん悩んだが、今のところそれきりになっている」という話をしたところ、上記のようにねじ曲げられ、「上山和樹という者が、このようなことを公言しているが」と、文部科学省に直接問い合わせられたらしい。▼展開次第では、まさに私の「肩書詐称」を捏造されたことになり、大変な問題だが、現在はとりあえず静観している。(この件で風評を立てている者を見かけたら、ぜひメールにてご一報ください。)

*2:たとえば滝本竜彦氏は、直接「ひきこもりのために」書いてはいない。しかし、「ひきこもり」のイメージを変えることに貢献していないだろうか。もちろん、彼のテーマ性が「ひきこもり」に限定されていいはずはない。

*3:個人的な恩義は、もちろん大切に考えています。

それにしても・・・・

どうしてこう、「足を引っ張られる」ばかりなんだ。
いや、でも、ピンポイントのコラボレーションは、確実に生じている。
(そのような出会いを、いくつも体験している。)
できることをこなしつつ、そちらに賭けよう。