「属性」

  • 「属性当事者」の備えるいくつかの典型的属性は、社会的カテゴリーの「定義」を形作る*1。 自分が有する当事者属性に自覚的な人とそうでない人がいる。
    • コアとなる定義的当事者属性の軽重のみならず、それに関連する様々な当事者属性のバリエーションが列記できる(それが各当事者の特殊事情を形成している)。 性別・嗜好・経歴、などなど。 そこにはマイノリティ内における「多数派」「少数派」が存在する。


  • 「偽ヒキ」「自称ひきこもり」*2は、「属性」をめぐる話。 「課題脱落的」という原理的特質を持つ「ひきこもり」において、「誰が真性当事者か」という≪深刻度競争≫。
    • 「ひきこもり」が、属性定義上「脱落」の極北だとすれば、「より徹底して脱落的である」者が「真性ヒキ」ということになる。 これに従えば、ネット上でBLOGや掲示板に書き込みをしていればその時点で「当事者」ではなくなる*3。 → 「ひきこもり」の話は、「属性」のレベルで考えている限り、「真に深刻な当事者」の発言は原理的にあり得ないことになる。 自発性を発揮し、口をきいた瞬間に「(現役当事者ではなく)経験者」でしかなくなるのだが、「経験者」の発言は、「(不可視かつ無声の)現役当事者」の真にナマの体験情報からは乖離している、とされる。 では、経験者による体験の言語化は、何をしているのか。 「傷について語る」のではなく、「傷語る」という要因など。【これについては当BLOGの宿題】


  • 属性によって「当事者であるか否か」が問われるのは、「条件付き恩恵」の支給対象選別の際。
    • いわゆる「派閥」には、経済的恩恵がついて回ることがある。 課題そのものは(実は)共有していなくても、「思想を共有している」という属性を確認できれば、派閥恩恵を受けられる、ということか。






*1:参照

*2:こちらこちらを参照。

*3:「発言した瞬間に当事者ではなくなる」云々は「サバルタン」と関わると思うが、この語にはすでに様々な議論文脈があるようで、運用すると「サバルタンとはそもそも何か」など、必要以上に話がややこしくなってしまう。 ここではひとまずこの語を使うのは避け、「不可視・無声・自発性喪失」の極北としての引きこもり像を理念的に設定し、それとの関係で論じてみる。

「課題」

  • 「課題当事者」*1としては、次のようなパターンがある。
    • (1)社会的に課題解決を迫られており*2、本人も自覚的に課題を引き受けている*3
    • (2)社会的に解決を迫られているが、本人は課題を引き受けていない*4
    • (3)社会的には解決を迫られていないが、本人が自覚的に課題を引き受けている*5
    • (4)社会的に解決を迫られておらず、本人も引き受けていない*6


  • 「課題」には、各人は複数帰属し得る(自覚的にも無自覚的にも*7)。
    • 属性としての当事者性を共有しているからといって、別の当事者が自発的に立てた課題に自覚的に帰属する義務があるわけではない(たとえ他者から見て「君は事実上この課題の当事者ではないか」と見えても)。 しかし、多くの個人に関係する重要な争点はある。 → 「この課題が重要だ」という提案自体が、政治的プロセスのはず。
    • 当事者各人が自分で課題を設定し、脱落したり参入したりする。 ここにこそまさに≪自発性≫の契機が深く関わる。 【 → 「自発と契約」】
    • 課題脱落的」というその原理的属性自体が、自己言及的に課題になる。


  • 誰かが明文化(言語化)しなければ、課題は分節されず、共有されることもない。
    • 多くの人が自発的に支持し共有し得る課題の析出は、それ自体が重要な仕事。
    • 属性においていくら濃厚な当事者性を備えていても、自覚的課題において共有するものがなく、その当事者が私の引き受けた課題から(本人の自覚的設定としては)脱落していれば、私とその人とは共有できる議論がない。 逆に当事者属性がいくら希薄でも(極端に言えば全くなくても)、自覚的課題を共有できるなら≪ミーティング≫ができる。






*1:法律的紛争解決における「当事者」と、マイノリティ問題における「当事者」の違いは。【参照

*2:「働け」など

*3:引きこもり・ニート状態の自罰傾向はここ

*4:「課題を知ってはいるが引き受けない」場合と、「気付いてすらいない」場合がある

*5:自発行動における「自己責任」はこの文脈

*6:「泣き寝入り」にあたる

*7:客観的属性から、家族や社会から課題を押し付けられることがある。 「働け」など。

「属性から離れつつ、課題に没入してゆく」を目指す

属性としては、私はなるだけ引きこもりの苦痛から離れたいし、社会的チャンスの増大や訓練的契機によって「できること」*1を増やしていきたい。 それは属性において「ひきこもり的である」ことから離れること、状態像においてもメンタリティにおいても「深刻な当事者」からどんどん離れていくことであり、「深刻な当事者」と共有するものがどんどん減っていくプロセスだが、それ自体はまさに慶賀すべきこと。 各々の当事者がそれぞれの仕方でそういうプロセスを歩めればいい。
閉じこもり続けることが善悪面でも経済面でも差し迫った問題にならず、「ひきこもり」としての属性や課題から解放された状態を目指すこと。 言葉を替えれば、生活体験のなかに「自発的要因」を増やすこと。


属性における当事者性がいくら希薄になろうとも、「ひきこもる」という体験を入り口にして自分が設定した課題は、個人的であるに留まらず、さらには「当事者同士」にもとどまらず、他者たちと共有できる。(その課題は当事者個々人で違っていい。)
たとえば私がいま考えるのは、「いったん脱落しただけで再チャレンジのチャンスからさえ疎外されてしまう社会」の状況を変えられないか、ということ。 「脱落する権利と再チャレンジの権利」ということで、このテーマを私は「ひきこもり(支援)」を考える中から析出したが、そのテーマ(課題)の重要性自体は、ひきこもり当事者にとってだけのものではないはずだ(引きこもり経験者において極めて先鋭的に問題化することは確かだが)。





*1:ひきこもりとは、ある「無能力」の姿だと思う。 この点についての当BLOGの議論は、ページ最上部の検索ボックスに「無能力」と要れて検索してみてください。 たとえばこちらなど。

宿題山積み

「当事者とは誰か」の話をするとき、「当事者属性を備えているかどうか」の話と「課題を共有できているかどうか」の話をごっちゃにすると、ものすごく不毛な論争になる気がします。


さて、まだ「当事者が発言する」ということについては、ほとんどまったく触れていない・・・・。
重要なのは≪情報価値≫という観点だと思うのですが、それはまた次回以降に・・・・。