「強制延命」という高価な嗜虐?
読者のかたより。 (完全に原文のまま転載)
初めまして。
ど田舎で内科医をやっている女医です。
切込隊長ブログのコメント欄から飛んできました。
いくつかのエントリを興味深く読ませていただきました。
殊に「尊厳死について」に関するエントリで、
目から鱗が落ちた気がしました。
田舎で内科医をやっていると、
いわゆる「ニートの高齢化したなれの果て」というものに、
現実に多々遭遇します。
新語としてのニートは最近の概念ですけど、
この人ってそうだったんだよねーと思う人は、
どんな時代にもいたんでしょうね。人数の問題であって。
アルコール中毒、糖尿病、癌、
社会的活動のない人たちは、こういう病気に罹りやすいようです。
本人は、もうにっちもさっちもいかない状態になって、
(痛くて我慢できない、きつくて身動き取れない等)
初めて病院にやってきます。
(たぶん、苦しみなく死ぬのなら、病院に来ないと思います。)
ある程度の年齢になると、家族は見捨てているか、いない場合が多く、
入院の身元引受人に困ることが多いです。
幸い田舎なので、ホームレスは少なく、
民生委員を通じて、市営住宅に住んでいたり、
親の代からの持ち家に住んでいます。
生活保護で暮らしているケースが大半です。
こういう人は、とりあえず入院で加療に入りますが、
入院中はそれほど逸脱した行動をとりませんので、
(アルコール依存症の人は、どうにかしてアルコールを持ち込むことがありますが)
一旦は病状が改善するケースは少なくありません。
ただし、退院してからは全然ダメです。
自己管理できない(する気がない、)通院も内服もしないで治療をドロップアウトし、
悪化して再び来院するケースがほとんどです。
一回悪化する事に、かなり危険な状態で運び込まれることが多くなります。
実際、緩慢な自殺だなーとはよく思いました。
こういう人に湯水のように医療費を注ぎ込むたび、
(生活保護ですから、医療費は100%国が出します)
複雑な気持ちになっていました。
この人達は、社会的に終わっています。
今までもそうだったし(この点が老人介護とは違いますね)、
これからも社会経済的活動に復帰する可能性はきわめて低いです。
(ここで100%あり得ないと言い切ってしまえないのが、
かえって問題を複雑化させている気もします。)
今医療費がえらいことになっているのに、この人達にここまで注ぎ込んでいいのか?
医者として、救命に全力で取り組んでいましたが、
その疑問はいつも頭の中にありました。
そして何より、本人達は、あまり生きることを望んでいないのです。
楽に死ねるならそれが一番いいと思っているみたいで。
そこまで疑問を感じていながら、
「尊厳死」という発想には、今までたどり着けませんでした。
そこまで思い切った思想の飛躍が出来なかったんです。
私の発想では、こういう、誰かが面倒を見ないと自力で生きていけない人たちは、
老人介護問題と同じなので、そういう施設を作って収容した方が、
社会経済的にも(労働できる家族を介護に縛り付けなくて済むし)、
また本人達にも楽なのじゃないかというところまででした。
私が見た、(たぶん)高齢化したニートというのは、
ものすごく逃避的でした。もうそれは芸術的なほど。
事実や現実に直面するのは、死んでもゴメンというような態度です。
ある男性は、重度の貧血で病院に来て、
症状から見てどうやら下部消化管に癌があるな…しかも進行してそう、と考えました。
そういう人だったので、脅かさないようにそーっと検査の必要性を話しましたが、
たぶん本人もなんか悪い病気だろうと予測して病院に来ていて、
それでいて事実に直面できず(大腸カメラの恐怖のあったのでしょうが)、
「どうしても一回帰って考えてこないと検査は出来ない。」
と言い張り、それっきり病院には二度と来ませんでした。
半年後ぐらいに、首つり自殺したことを知りました。
私自身の少ない人生経験では、
逃避しだすと、さらに心理的負担が大きくなる気がします。
わかっていて、それでもその逃避のスパイラルにはまりこんだら、
ほどなくして、ものすごい心理的負担にのしかかられるんだろうと、
なんとなく想像は出来ます。
そして最後は自らを殺してしまうしかなくなるのだろうと。
でもあんなに事実に直面し、決断することが苦痛だった人が、
どうやって首つり自殺を決断し実行したのか。
泣きながら、震えながら、ロープを用意し、台に乗り、首に掛け、
台を蹴っ飛ばすまでに一体どれだけの時間苦悩したのか…。
それはそれはものすごい苦痛だっただろうと思うと、暗澹たる気分になります。
つらつらと思うところを書きました。
長文、乱筆お許しください。
これからも時々ブログにお邪魔します。それでは。
以下、全文掲載許可を求めた私のメールへの返信より。
一つだけ付け加えますと、
状態の悪くなったアルコール中毒患者とか糖尿病患者は、
本当に心肺停止状態で担ぎ込まれてきたりします。
ERで心拍が戻っちゃったりすると、普通ICUに入ります。
ICUは基本的に一泊素泊まり6万円と言われています。
呼吸状態も悪いので呼吸器も付けます。
全身循環が悪くなっているので、透析をすることも多いです。
いろんな高額な薬も、惜しげなく使います。
状態が悪いので、24時間監視モニターも装着します。
これらはもちろん、全部保険点数として加算されます。
数日間で医療費が300万、500万といくことは、決して珍しいことではありません。
この人達は、医療費は公が負担しますし、年齢的にも若年なので、
なんの縛りもなく、最先端医療を施します。
それで例え退院出来るまでに回復しても、
数日から数ヶ月単位で、もっと悪い状態で舞い戻ってきたりします。
湯水のようにというのは、決して過大な表現ではないと思います。
関連すると思われる当BLOGのエントリー (下へ行くほど古いです)
「意志への義務」から、「選択肢的受容」へ
「社会的コストの増大」が強調されることには不穏なものを感じる。 が、この問題が社会的衝迫力・説得力を持つときに重大な側面であることは間違いない。
真に重要なのは、「本人たちには、そこまでして生き延びたいという意志があるのか」ということだ。 本当にどこまでも「生き延びたい」と思っているなら、社会的コストにも意義がある。 しかし、本人が「できれば楽に死にたい」と思っているなら、一体何をしていることになるのか。 「死にたいと思っている人を無理矢理に生き延びさせる」という、ある意味たいへん嗜虐的な行為のために、膨大な社会的コストをかけているのではないか。
いや、しかし本人は、本当に「死にたがっている」のか? 「追い詰められた結果、死という選択肢以外見えなくなっている」のではないか? 人間関係や労働環境が変われば「生きよう」という意志が出るなら、今ここの自殺・希死念慮を本人の「自由意志の発露」として尊重するのはまずいのではないか?
いや、しかし、どのような救援努力や社会的施策も、あらゆる個人を救済し尽くすことなどできない。 必ず、取りこぼしが生じる。 その置き去りにされた人々には、「黙って一人で死ね」というわけか?
少なくとも、一人の人間の自殺宣言を社会的手続きに乗せ、そこにおいて「本当にこの自殺宣言は合理的選択と言えるのか、残された対応策はないのか」を真剣に検討することで、そこから様々な問題が明らかになり、あるいはその手続きの遂行自身が、「死にたい」という意思を和らげるかもしれない。 安楽死手続きを開始することによってしか、社会にアクセスできない人もいるかも知れず、その人はそのアクセスの結果、社会参加のチャンスを掴むかもしれない。
手続きの遂行には充分な時間をかけた審査と検討が必要だろうし、「自分に振り向いてもらうために、何度も何度も手続きを開始してはキャンセルする」というのでは周囲が振り回されるだけになる。 「申請却下もあり得る」「一生に一回しか手続きを開始できない」など、具体的手続きの細部を徹底的に検討し、細かく条文化する必要がある。
自殺願望を社会的に承認するなんて道徳的ではない?
しかし、そもそも「ニート・ひきこもりには強制労働を課せ!」という怒号には、「のんびりした支援策には社会的コストがかかりすぎる」という懸念もあるはず。 現時点では「強制労働させろ!」は無根拠な感情的噴き上がりにしか見えないかもしれないが、今後この「脱落者たちの問題」が深刻化して、真に「社会的コスト」として議論対象になったとき、それこそ狂暴なプロセス、つまり本人の自発意思さえ無視したような強制的回収行動が始まるのではないか。
そもそも、「安楽死はいけない」と言い張る人は、脱落して死ぬしかなくなっている人のために自分では何かしているのか? まさか、自分は安全圏に身を置いて何もせず、「自殺なんてけしからんことだ」と道徳的非難を浴びせているだけ?
いやそれとも、「“不要な”人間への安楽死強要圧力」を懸念しているのか。
じゅうぶん現実味のある想定だし、私もそれを最も恐れるが、安楽死強要発言の犯罪化(刑事罰の設定)や、申請受理手続きの慎重化によって、「自由意志」という微妙な因子を守ることはできないか。
排除された存在を社会的に救済する努力は徹底的に追求されるべきだし、その努力には終わりがあってはならない。 しかしその努力が、あり得ない万能感をもって「必ず助けてやるから、生きる努力をしろ」というのは、何か越権的かつ欺瞞的な振る舞いではないか?
現実の社会は、「脱落者は見殺し」という暗黙の前提で進んでいるというのに。
「生きようと意志することは、義務なのか」――政治的現実味とは別に、そのあたりで議論することには、なにがしかの意味はないだろうか?
私自身は、今後も社会参加の努力を続ける。 しかし一方で、「生きることしか許されない、そのくせ脱落者は見殺し」という社会に、怒りと息苦しさを感じる。 「自殺したって構わない、しかし救済努力は最後まで行なう」が本当ではないのか。
追記
- 医師のかたからのメールは、「生活保護を受けていても、苦しんで死ぬのがいやだから生きているだけで、実は楽に死にたがっている人は多いのではないか」「そういう人に税金を湯水のように使っている現実がある」という話。
- 私の話は、「脱落者の大半は見殺しにされる。だったら安楽死という選択肢を社会的に用意するのは、万能ではあり得ない支援事情に鑑みて、人道的支援の一環と言い得るのではないか」という話。 【「生活保護を受けているが生きる意志がない」(断末魔が恐いから仕方なく支援を受けながら逃避的に生き延びているだけで、楽な死があればそれを選ぶ)という人も含まれる。】
- 施策としては、
- (1)生活保護の拡充
- (2)自発性の起動
- (3)職業・生活訓練の機会提供
- (4)差別的排除を生む環境の改善 などが課題として挙がると思う。
- (1)をクリアできても(2)がなければ上記メールと同じだし、(3)があっても(2)がなければ意味がない。 というわけで、鍵となる課題はやはり(2)になる。 おそらく(4)が、環境としてここに関係する。
- 脱落者を非難する人々は、「やる気さえあれば社会復帰できるはず」というが、「当事者の個人的責任に帰すことの出来ない社会的排除」が自発性の目を摘んでいる*1という面を見ていない。 希望という栄養がないのだから、自発性という最弱の植物はたやすく枯れてしまうように思える。 そこで「気合いだ!」等の根性論を持ち出すのは、むしろ構造的排除という要因を隠蔽することになる。 構造的排除を根性論にすり替える雰囲気は、脱落者をその「脱落している」という状態への偏見によってさらに(つまり二重に)排除する。
- 現実的には、生活保護の拡充はほとんど望めず、(2)だけあっても構造的排除が是正されなければ(3)にも意味はない(訓練を積んでも復帰の見込みはない)。 構造的要因の是正には時間がかかるし、(4)の是正にはさらに時間がかかる(差別的偏見は続く)。 排除され、支援がなく、差別的偏見すらある状況で、生活要請にひたすら追い立てられる。 選択可能な範囲に積極的に意志できる要因――生活を持続的に支えるほどの強いそれ――がなければ、「あえて生きていきたい」という自発的意欲は風前の灯火になる。 1分1秒もこの世にいたくない意識。 時間切れで野垂れ死ぬか、自殺するか。 → 最後に残った自発性が、生をではなく死を志向したとき、「人道支援としての安楽死」が問題になる。
- 施策としては、