- 医師のかたからのメールは、「生活保護を受けていても、苦しんで死ぬのがいやだから生きているだけで、実は楽に死にたがっている人は多いのではないか」「そういう人に税金を湯水のように使っている現実がある」という話。
- 私の話は、「脱落者の大半は見殺しにされる。だったら安楽死という選択肢を社会的に用意するのは、万能ではあり得ない支援事情に鑑みて、人道的支援の一環と言い得るのではないか」という話。 【「生活保護を受けているが生きる意志がない」(断末魔が恐いから仕方なく支援を受けながら逃避的に生き延びているだけで、楽な死があればそれを選ぶ)という人も含まれる。】
- 施策としては、
- (1)生活保護の拡充
- (2)自発性の起動
- (3)職業・生活訓練の機会提供
- (4)差別的排除を生む環境の改善 などが課題として挙がると思う。
- (1)をクリアできても(2)がなければ上記メールと同じだし、(3)があっても(2)がなければ意味がない。 というわけで、鍵となる課題はやはり(2)になる。 おそらく(4)が、環境としてここに関係する。
- 脱落者を非難する人々は、「やる気さえあれば社会復帰できるはず」というが、「当事者の個人的責任に帰すことの出来ない社会的排除」が自発性の目を摘んでいる*1という面を見ていない。 希望という栄養がないのだから、自発性という最弱の植物はたやすく枯れてしまうように思える。 そこで「気合いだ!」等の根性論を持ち出すのは、むしろ構造的排除という要因を隠蔽することになる。 構造的排除を根性論にすり替える雰囲気は、脱落者をその「脱落している」という状態への偏見によってさらに(つまり二重に)排除する。
- 現実的には、生活保護の拡充はほとんど望めず、(2)だけあっても構造的排除が是正されなければ(3)にも意味はない(訓練を積んでも復帰の見込みはない)。 構造的要因の是正には時間がかかるし、(4)の是正にはさらに時間がかかる(差別的偏見は続く)。 排除され、支援がなく、差別的偏見すらある状況で、生活要請にひたすら追い立てられる。 選択可能な範囲に積極的に意志できる要因――生活を持続的に支えるほどの強いそれ――がなければ、「あえて生きていきたい」という自発的意欲は風前の灯火になる。 1分1秒もこの世にいたくない意識。 時間切れで野垂れ死ぬか、自殺するか。 → 最後に残った自発性が、生をではなく死を志向したとき、「人道支援としての安楽死」が問題になる。
- 施策としては、