「意志への義務」から、「選択肢的受容」へ

「社会的コストの増大」が強調されることには不穏なものを感じる。 が、この問題が社会的衝迫力・説得力を持つときに重大な側面であることは間違いない。
真に重要なのは、「本人たちには、そこまでして生き延びたいという意志があるのか」ということだ。 本当にどこまでも「生き延びたい」と思っているなら、社会的コストにも意義がある。 しかし、本人が「できれば楽に死にたい」と思っているなら、一体何をしていることになるのか。 「死にたいと思っている人を無理矢理に生き延びさせる」という、ある意味たいへん嗜虐的な行為のために、膨大な社会的コストをかけているのではないか。


いや、しかし本人は、本当に「死にたがっている」のか? 「追い詰められた結果、死という選択肢以外見えなくなっている」のではないか? 人間関係や労働環境が変われば「生きよう」という意志が出るなら、今ここの自殺・希死念慮を本人の「自由意志の発露」として尊重するのはまずいのではないか?
いや、しかし、どのような救援努力や社会的施策も、あらゆる個人を救済し尽くすことなどできない。 必ず、取りこぼしが生じる。 その置き去りにされた人々には、「黙って一人で死ね」というわけか?
少なくとも、一人の人間の自殺宣言を社会的手続きに乗せ、そこにおいて「本当にこの自殺宣言は合理的選択と言えるのか、残された対応策はないのか」を真剣に検討することで、そこから様々な問題が明らかになり、あるいはその手続きの遂行自身が、「死にたい」という意思を和らげるかもしれない。 安楽死手続きを開始することによってしか、社会にアクセスできない人もいるかも知れず、その人はそのアクセスの結果、社会参加のチャンスを掴むかもしれない。


手続きの遂行には充分な時間をかけた審査と検討が必要だろうし、「自分に振り向いてもらうために、何度も何度も手続きを開始してはキャンセルする」というのでは周囲が振り回されるだけになる。 「申請却下もあり得る」「一生に一回しか手続きを開始できない」など、具体的手続きの細部を徹底的に検討し、細かく条文化する必要がある。


自殺願望を社会的に承認するなんて道徳的ではない?
しかし、そもそも「ニート・ひきこもりには強制労働を課せ!」という怒号には、「のんびりした支援策には社会的コストがかかりすぎる」という懸念もあるはず。 現時点では「強制労働させろ!」は無根拠な感情的噴き上がりにしか見えないかもしれないが、今後この「脱落者たちの問題」が深刻化して、真に「社会的コスト」として議論対象になったとき、それこそ狂暴なプロセス、つまり本人の自発意思さえ無視したような強制的回収行動が始まるのではないか。
そもそも、「安楽死はいけない」と言い張る人は、脱落して死ぬしかなくなっている人のために自分では何かしているのか? まさか、自分は安全圏に身を置いて何もせず、「自殺なんてけしからんことだ」と道徳的非難を浴びせているだけ?


いやそれとも、「“不要な”人間への安楽死強要圧力」を懸念しているのか。
じゅうぶん現実味のある想定だし、私もそれを最も恐れるが、安楽死強要発言の犯罪化(刑事罰の設定)や、申請受理手続きの慎重化によって、「自由意志」という微妙な因子を守ることはできないか。


排除された存在を社会的に救済する努力は徹底的に追求されるべきだし、その努力には終わりがあってはならない。 しかしその努力が、あり得ない万能感をもって「必ず助けてやるから、生きる努力をしろ」というのは、何か越権的かつ欺瞞的な振る舞いではないか?
現実の社会は、「脱落者は見殺し」という暗黙の前提で進んでいるというのに。


「生きようと意志することは、義務なのか」――政治的現実味とは別に、そのあたりで議論することには、なにがしかの意味はないだろうか?


私自身は、今後も社会参加の努力を続ける。 しかし一方で、「生きることしか許されない、そのくせ脱落者は見殺し」という社会に、怒りと息苦しさを感じる。 「自殺したって構わない、しかし救済努力は最後まで行なう」が本当ではないのか。