「順応済みの主体」によるポジション・トークではなく

社会は、既存の承認された欲望スタイルしか、私たちに提示しない。しかし、取り組む道はそれだけではない。何かが着手されるときの「関与の手続き」にこそ、主体が成り立つプロセスの、危機の政治が賭けられている*1。 斎藤の議論は、ここで「譲歩するな」というだけで、あくまで観察者の地位にある。逆に言うと、ひきこもりに関わる斎藤自身の主体は、そのように振る舞う観察者の地位において、主体構成の問いを「解決済み」にしている。その主体構成において取れるポジションを演じることしかできない。
主体の構成は、お互いの関係の中でも決まってくる(そこに責任も生じる)。 お互いがどのような関係をベタに生きてしまっているのか、そこの分析意識を共有するのでなければ、ベタな関係性への隷属しかできず、その関係に振り回され、「ベタな関係への恐怖症」からいつになっても自由になれない。既存の欲望フレームへの順応には、そういう恐怖がつねに憑いて回る。 すでに役割の決まったフレームに順応できたことを事後的に誇示されても困る。(それは、お互いの関係フレームの固定化にあたる。)


カニアンとしての斎藤環は、理論的なテーマとしては「欲望の政治」を最も先鋭的に考えているはずだが、臨床家としては、「寄り添う」か、「観察する」しかない。 転移操作としては、「決まったフレームの提示」と、「偶然の出会いに向けたたゆたい」しかない。 これでは、素朴な順応主義の手法と、(少なくとも臨床技法としては)何も変わらない。 過激な欲望を理論的に*2扱いつつ、それが実際の社会参加の方法論に内在的に組み込まれていない。
欲望の倫理を過激に語るカニアンとしての斎藤と、素朴な欲望フレームへの順応を勧める臨床家としての斎藤は、内在的には出会わないままに見える。 これは、欲望のフレーム自体を作業場とすることのないラカン派の限界にも見える。


その3に続く


*1:ひきこもる主体の危機は、「みずからを政治化できない苦しさ」と表現できる(参照)。 ここを扱わないとどうしようもない。

*2:オタク的に?