欲望の生態

 id:Ririka:20031004さんのコメント欄のやり取りをきっかけに、あらためて「欲望」のあり方について考える。「関心空間」にある彼女の日記も読んでみたが、Ririka氏はオタク系でもなくメインストリーム系でもなく、独自の欲望の道を歩んでいるように見える(まだ自覚的な指針はないのかもしれないが)。僕にはよく見えないジャンルを巡って熱い言葉が交わされたりもしていて、非常に刺激を受けた。
 どうも最近の僕は「熱心な欲望 → その人はオタク」と思い込みすぎていて、しかし考えれば当り前だがそんなはずはない。オタク的な「萌え」や「やおい」に乗らない熱い情熱だってあるはずだ。
 

 Ririka氏はオタクと引きこもりとを対比して、「ひきこもりの宮崎駿」が出てくれば事態は劇的に変わるのかしら、と言うのだが、僕が考えているのもまさにそうしたことだ。つまり、偉大な欲望者であり、人々の欲望を喚起してやまない人物の登場。オタクの世界を豊かに形作ったのも、そうした人たちだったはずだ。
 

 僕はどうしてもすぐに「欲望とは何か」、「彼の欲望はどのように機能しているか」といった<理論>に走ってしまうのだが、それ自体が僕の欲望の減退を表しているのかもしれない。というか、多くの場合「理論」は、僕の意識のための防衛機制にしかなっていない。やはり欲望は実際にそれを激しく生きてみないと。
 

 「欲望のメタ理論」と、「オブジェクト・レベルで実際に欲望を生きること」と。「理論を目指す」こと自体が僕にとってのベタな欲望だ、とも言えるのだけれど、その欲望は現場に関わったり人と接したりすることナシにはすぐに掻き消えてしまう。
 

 先日僕は、フィクション親和性が高い「オタク」に対して、ひきこもり当事者は「フィクション親和性が極端に低い」と書いた。もっと別種のいろいろの欲望と比較しつつ、この問題はずっと考えてみたい。それは「欲望」についての、「理論と臨床」だろう。
 (付記:http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20031004#cにて、id:kagami氏より、「愛するより愛されたい」という90年代オタク・カルチャーの特徴を聞く。僕は「欲望」という言葉で考えていたけど、「愛」というのは・・・。「愛したい欲望」とか。また考えるヒントをもらった。)