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- 「政治的なものに身を委ねるたやすさ」というのは、わかりやすい評価軸(≒党派性)が期待できるフィールドで、それに合わせて振る舞うこと、でしょう。就労が難しい昨今は、ほとんどの人がこういう配慮に迎合せざるを得ません。
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- それに対して、実態を暴露してしまうような、生成的で内部告発的な分析については、それを口にしたところで、評価されるとは限りません。なにしろ、《評価してもらうフィールド》そのものの成り立ちを問題にすることにもなるので。▼勇気をふりしぼって本当のことを言っても、誰も反応しない(あるいは追い出される)――かもしれない。(この「かもしれない」に《実験》がある)
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- 体制や反体制の動きに順応し*4、《実験台》をやらずに済むなら、それはそれでいいのかもしれません。しかしどうも、「このままじゃ、まずいんじゃないの」と言いながら、どんどん追い詰められる。何かほかのやり方を、探すしかない。
@parergon2 「自分はそういう実験台にはぜったいみずからをしない」と言い放ったのは某批評家だが、その小ずるさが今の「批評」の惨状を作り出してしまったこと、これを私は生きてしまった。批評も「クリティーク」をやめること、そこからこれからの集合的言語行為が始まるだろう
「生きてしまった」という微妙な言い方。
この、受動と能動の織り交ざったようすは、メタに立って一方的に相手を断罪するヒロイズムではないはずです。何か見てしまって、何か生成してしまった――ここには、理念と対象を同時に扱わざるを得ないような混交があります。それを引き受けなおす動きには、根幹からやり直さざるを得ないような、いわばその都度オリジナルにならざるを得ない、《政治を生きる》がある。(そういうことをやらなければ、《政治を生きる》にならない)*5
批評というものが、ひたすら自分だけがメタに立つ《診断》にすぎないなら、
それはメタに見えて、じつにベタな党派性であり、そこに《実験》はありません*6。メタを気取る語りでは、語りのスタイルにおける自らの加担責任は、なかったことにされます。技法や関係スタイルについてのベタな関与責任が、メタの装いのもとに抑圧されるのです(言説化が禁じられる)。実験をやっていないが、「実験をやっていない」という事実そのものが忘却される。言説が初めてそこで生成されるようなあり方が禁じられる(禁じられていること自体が忘却される)。そして、卑劣きわまりない「客観性」の装いで、事態が進んでいく。
このあたりについて、廣瀬氏は先日こうも語っています:
なぜみな「論じにくい」対象、「書きにくい」対象をこそあえて語ってあげようとしないのか。そうして論じられなかった、書けなかった経験が身体に組み込まれることこそが、根源的創設として生産的なものとなるのに
語りにくいことを語るには、それにふさわしく、問題意識をやり直す必要が生じてきます(ベタな告白語りというのは、じつは出来合いの、パターン化した、「語りやすい」語り方にすぎません)。そして、追い詰められたからと言って、必ずしも必要なモチーフは削り出せないわけで、ここにも《実験》があります。*7
今の状況においては、
危険を冒してでも《実験》に乗り出さざるを得ない側と、そういう動機づけを抱えない側との間に、紛争状態があると言えそうです。――左派が必ずしも実験をしているわけではないし、いわゆる弱者が、必ずしも実験の動機づけを抱えているわけではない。そういうことをつぶさに見てゆくことに、《政治を生きる》がありそうです。
*2:左翼系では、つねに繰り返される論評だと思います。
*3:評価の環境が硬直していれば、「バカじゃねーの」と遺棄されて終わります。
*4:反体制というのは、たいていそれ自体が全体主義的で、官僚的であり、つまり順応主義にすぎません。反体制をやっているご本人は、「逆らってる」つもりなんですが――その「さからい」がイデオロギー的に固着し、自分の条件づけを検証するような柔軟な言動ができなくなっているわけです。
*5:オリジナルになるというのは、あんまり嬉しくない、苦痛と痛みに満ちたものかもしれない。
*6:《実験》には、党派的確信そのものをやり直すという契機すらあるはずです。
*7:名詞形の「当事者」に居直ってしまえば、語りのパターンは安定しますが、必要なことはもう語れなくなります。