カテゴリー差別と嫌悪感

非モテ系の人間が差別されても、それは「当然だ」と流されてしまい、ほかの差別のように取り合ってはもらえない。 ▼見下されたために過剰な非難を浴び、しかしそれは分かりやすい「差別」とは見えないため、集団で嘲笑されるままになる。


差別は、分かりやすい差別枠があるから差別なのではない。 人間をあるカテゴリーに囲い込み、「見るからに○○だな」「○○は傲慢だから」――勝手なカテゴリー属性で逆に規定してみせたとき、それはすでに差別なのだ。 【逆に言えば、いくら嫌ってもそれは単なる嫌悪感であり得る。】


ある属性をもった人間を「支援の対象」として囲い込むことは、差別的な見下しであり得る。 「○○のくせに」。 私の存在が、人格を持った一個人ではなく、「○○」という劣位のカテゴリーと同一視される。 支援のそぶりを見せていた人間が、本物の差別主義者に豹変する。


ひどい猥談をしているモテ男。 その横で、思い詰めたセクシュアリティ論を必死でする非モテ男。――セクハラで訴えられる危険があるのは、非モテのほうだ。 ▼ひきこもっている男*1が無理に社会に出てきても、どんなに真面目にコミュニケーションの努力をしても、その真面目さこそが、女性にとって迷惑になる。 努力をすること自体が嫌われるのでは、努力をやめるしかない。*2


これは、「モテたい」というレベルの問題ではない。 差別的に社会から抹殺される危険であり*3、またそれを怖がってしまえば、異性のいる場には入れない。 ▼セクシュアリティを媒介とした、本物の社会的排除の問題だ。



*1:異性愛の男女」を中心に考えること自体が、また別の形で「セクシュアリティを媒介にした排除」を呼び込んでしまう。

*2:ただし、嫌悪感を表明する権限は、徹底的に女性に確保されるべきだ(女性であれ誰であれ)。 表明した上で、嫌だと思う行為をやめさせること。――本当の問題は、嫌悪感を表明する難しさにある。 現状では、ほとんどの女性は泣き寝入りだと思う。

*3:厄介なのは、自分を本気で「女性の代弁者」だと思っている男だ。 彼らに逆らうことは、「女性に逆らうこと」とされる。 非モテへの差別は、男社会での序列として機能する。 ▼なんともジレンマなのは、そのような男ですら、実際に女性の役に立つということ。 泣き寝入りする女性がほとんどである以上、その功績は無視できない。――「本当にセクハラしまくっている男」が膨大にいるかぎり、ここで取り上げたような問題は解消不可能なのか。