イデオロギーについての戯言的連想

警察機構などが「国家のイデオロギー装置(AIE)」、その物質的定在であるとして、言語そのものは、「社会生活のイデオロギー装置、その物質的定在」だろうか。 ▼「イデオロギーの呼びかけ」に応答することが「主体化」であるとすれば*1、言語そのものに応答しない、つまり社会的行為そのものが消失してしまう引きこもりは「究極の応答拒否」と見えて、実は「あまりに厳密に応答しようとしすぎてかえってできなくなっている」姿。 その限界的な疎外態が一転して、そもそも順応を目指そうとすること自体が屈辱になり、痙攣的な拒絶が始まる。 語ろうとすることは、自分が発明したのではない(他者の作り出した恣意的な道具立てにすぎない)言語に順応しようとすること*2。 言語自体への順応が拒否されれば、「語り=社会的行為」は途絶する*3。 ただし、それは不可抗力というか、「本人の意思を超えてまで」継続してしまうやっかいな痙攣なのだが・・・。 ▼40年前の若者は「抑圧的な上部構造」を切り裂くために路上で投石したが、現代では言語そのものが敵であり、若者は一人で絶叫して自宅の食器棚を叩き壊す。――そんな孤立した若者が、日本中に十万人単位で散らばる・・・。



*1:cf. ミハイル・バフチン: 「言語は対話的」

*2:そこで私が思い出すのが、ラカンの「疎外の演算」だ。 ▼イデオロギー的な呼びかけの関係体系である他者の言語(メタはない)、それを生きることによって生じる避けがたい欠落・・・。

*3:これこそが去勢否認?