言説生産と外部

《当事者》は、そのつど「議論」として「生産」される。
苦しさが「問題」として社会的に構成されるためには、「当事者業界内部のメディア」に載っているだけでは話にならない。 それだけでは、業界内部の自慰的確認儀式で終わる*1。――しかしこれを口にすると、「エリート主義」「出世願望」と陰口を叩かれる。 ▼活動としての意義は、つねに「嫉妬と不寛容」によって潰される。



*1:「業界内のメディアに載ることには意味がない」などと言っているわけではない(冗談じゃない)。――このような「当たり前のこと」にすらエクスキューズをつけなければならない、そのことにエネルギーの大半を奪われてゆく。