労働への参入と拒否――家事労働

どのような場所にあっても女がいて、女が移動をしながら再生産をしている。 (中略)
移民をめぐって活力ある議論を展開したのは、イタリアのマルクス主義者のひとり、マリアローザ・ダラ・コスタである。翻訳されている数少ない著書のなかでもとくに『家事労働に賃金を』と題された論集は、移民と再生産を立体的に考察する画期的な論考が収められている。マリアローザ・ダラ・コスタは、女たちの賃労働への参入が、労働の拒否の一形態であることを指摘した。女が賃労働に参入するのは、ある職業に対する積極的な関心や、企業の世界に参入しようとする積極的な動機付けがあるからではない。女たちは、見返りが少なく際限のない家庭内無償労働から脱出し、自分が自由に使う現金と休日を手に入れるために、賃労働に加わるのである。女が賃労働に甘んじるのは、それが家事労働よりもわりがよいかぎりにおいてであって、賃労働か家事労働かという苦々しい選択を迫られながら、どうせ働きづめの人生ならばどちらがよりましであろうかということを女は考えている。「女性の社会進出」の源泉には、女たちの労働の拒否がある。資本と国家がつくりあげる勤労道徳が労働の中心性を訴え、男性労働者がその求心力を信じ込もうとしているのに対して、女たちはそれとはまったく逆のベクトルで、労働からの脱出という遠心的な力につき動かされているのである。 (中略)
こうした女たちにとって、自分の時間をつくることと、自由な恋愛をすることと、子供に充分な教育を与えることは、分割することができない。すべての要求は不可分で、それぞれがそれぞれの条件になっている。女がラディカルであるのは、自由な生を全的に要求し、要求を分割したり部分的に譲歩したりできないようなしかたで欲望を構成するからである。もちろんここでいう「女」というのは、比喩だ。私が言いたいのは、労働と恋愛と教育を一体としてとらえ、それらの分割に対してはっきりと対決しようとする人々がいるということだ。ネグリが「労働者の女性化」と言うとき、それを私たちはこう読むべきだ。*1



ひきこもっている人間が「働きなさい」と言われるとき、それはふつう「家の外の賃労働に従事せよ」という意味だが、なぜみんな「家事労働」を忘れているのか。ひきこもっている人間が労働を探すとき、家事労働はその選択肢に入り得ないだろうか。自分の家だけでなく、他の家の家事労働との契約関係は無理だろうか。家事労働が賃労働になり、そこが就労の現場になり得ないか。



*1:現代思想』2005年11月号、矢部史郎「移動と再生産と戦争機械」、p.190