「獲得」と「剥奪」のジレンマ

 今我々が直面している女性の労働の現状は、「社会進出=働けること」をある種の権利獲得と見なすフェーズと、「搾取労働=働かされること」という何かの剥奪としてみなすフェーズとに分断させられているわけだ。具体的には「母体保護」を巡る問題としてこの分断は現れてくる。すなわち一方に「保護」を理由に「働かせてもらえない」人がおり、他方に「労働者」であることを理由に「休ませてもらえない」人がいるということ。
 働かせてもらえないのは、福祉国家的な体制を前提にした〈獲得〉に対する障害であり、休ませてもらえないのは、ネオリベラリズム的な原理に基づいた〈剥奪〉のロジックであるわけだが、こうした二つの局面を一つの制度で手当てするのは非常な困難を伴う。換言すれば、働かせてもらえない人を働かせようとすると、ある種の〈剥奪〉が呼び出され、休ませてもらえない人を休ませようとすると他方の権利を侵害する可能性が増す。ある時期までは前者を「左派」と呼び、後者を「右派」と読んでいたわけだが、エコロジカル・フェミニズムが突きつけた問題は、こうした対立軸の持つジレンマだったわけだ。
 おそらく、具体的な落としどころには「一つの制度、複数のケア」が要求されるのだろうけど、同じようなことは「バックラッシュ」についても言えるんじゃないか。



家にいれば死ぬしかない。 家を出れば地獄しかない。


『圏外からのひとこと』さんのエントリーが示唆的で、繰り返し読んでる。