「いっしょに作る」

24日のコメント欄で、id:temari さんから「誰も自分の代わりには生きてくれない」、でも≪協力≫はしてもらえる、という観点をいただく。これまでの僕は「別にこの生を生きたいと思わない」、そして「誰も手を貸してくれない」という感じ(気付いていなかったが)。受動的に与えられたこの生を能動的に引き受けようとも思わない(あまりにつらく甲斐がない)、そして引き受けようとすれば、完全に孤立した中ですべて自分で解決せねばならないのだ、と。
生きていく上では、「強制的に順応させられる」「命令に屈する」だけではなく、≪協力≫という、お互いの積極性が出会う契機もあったはずなのに、すっかり忘れていた*1


これまでに何度か「性愛的承認」の話をしてきたわけだが、ひょっとすると「お付き合い」というものは、単に「承認の相互贈与」というだけではなくて、≪共同作業≫という要因を伴うのではないか。 → 「お付き合いを知らない」というときの最も決定的な「経験不足」の要因は、そこにもあるのではないか。少々恥ずかしい表現になるが、性愛というのは、「与えあう」だけでなく、「いっしょに形作る」経験ではないのか


僕のこれまでの人生で、≪共同作業≫の最も印象的な例は、たぶん震災直後の地域住民との関係だ。あれの意味が、まだよくわからない。でも、気になって仕方がない…。





*1:そもそもこのブログにだって「協力」という要因はあったはずなのに、理不尽に罵倒される経験が増えるにつれ、「孤立して防衛」という意識ばかりになってしまった。