逃避

id:Ririka さんがくれた見事な指摘(赤字強調は引用者)。

 答えが出ない、または、どんな答えもありうる、「問い」ばかり探して、そういう、終わりのない「問い」に現在進行形で取り組みつづけることによって、目をそらしたい何かから目をそらしていられる。 そういうふうに、「問い」を問うこと自体が目的化しているような印象をうけたのです。

この問いかけは、僕のブログ活動そのものにも突きつけられていると思う。 今日のエントリーも逃避行動そのものかもしれないが、「何から目をそらしているか」について、ここまでの考えを記しておく。

  • 「性愛の正当性」を問い続けることで、≪無能力≫(できない)を、≪選ばない≫(あえてしない)に置き換え、安堵することができる。(id:sivad さんの発言参照)
    • 性愛に関する具体的な有力化(empowerment)が必要 → これまでの挫折経験(全敗)から、とても恋愛できるとは思えないため、チャレンジそのものを回避する。 「参加しない言い訳」としての恋愛論
    • 「女性一般」(絶対的女性)はないのだから、「無能力一般」(絶対的無能力)もない。 相対的無能力でしかないのだから、個別的チャレンジを繰り返すしかない。
    • 「恋愛できない」=「人間として価値がない」ではない。 「必ず恋愛しなければならない」ではないし、「恋愛乞食」になる必要もない。 ただ、「本当に性愛的承認は不必要なのか」は微妙。


  • 承認について、≪価値評価≫のレベルと、≪必要≫のレベルを分けるべき。
    • 積極的承認(「素敵!」)と、消極的承認(「それでもかまわない」)がある。
    • 自分の存在価値すべてを「承認」に頼る必要はないが、だからといって承認される「必要」が消えるわけではない。 性愛的承認のみがもたらす成長もある。
    • 「職業的承認の不在」(無職)は、自分の存在価値すべてを損ねるわけではないが、経済的困窮を脱するためには職業的承認は必要。 精神的にも、「自分は求められている」は必要かもしれない。


  • 恋愛やセックスを望んだとき、「相手を傷つける」「自分が恥をかく」 の2つしか経験したことがない。
    • ≪私を望んでくれてありがとう!≫という返答のあり得なさ(への確信)。
    • 「この人と付き合ってゆきたい」という積極的な気持ちや努力のすべてが「加害」になってしまう → 加害感情という名の被害意識に打ちひしがれている。
    • 「相手のためになる」という経験がなく、可能性も信じられない。 → 自分自身が、すでに自分に期待していないのではないか。 というより、「可能性があっ」ては、困るのではないか。
    • 自分の欲望と他人の欲望をともに封印し、問題を「なかったこと」にすることで、(自分と他人が)傷つく可能性を回避していたのではないか。