『動物化する世界の中で』(東浩紀笠井潔ISBN:4087201880)読了。総身に冷水を浴びせられたような読書体験だった。読んでいてほとんど指が震えた。決定的に「ダメだ、俺は不勉強だ、文化的に貧困だ」という思いに駆られて、すぐにも次の読書に向かいたいのだが、備忘録的にいくつか書き留めておく。

  • 前回の日記に「僕は東氏への転移に苦しんでいた」と書いたが、実はここ数年の東氏の発言には疎遠なものを感じていた。もちろん僕自身の文化的な貧困さにもよるのだが、自分自身の参加意識を刺激されなかった、ということがある。今回の本は対談であり、しかも相手は全共闘世代。率直で素っ気ない東氏と、言い訳ばかりに見える笠井氏。僕は19才のときに新左翼系思想の洗礼を受けそれ以後ずいぶん苦しんだので、ふたりの対話は自分の中の2側面の対話にも見える。あるいは、「ひきこもり当事者とその親とのかみ合わない対話」にも。35才になる僕にとって、実は笠井氏の老いた狼狽ぶりは他人事ではなかった。
  • 「思想や文学の言葉が現実と乖離している」という東氏の指摘は僕にとっても切実。ただし「世界を説明しなければならない」からではなくて、自分の身の回りのことを自分でやれたり、社会に自分を参加させられたり、といった意味で「現実的」でなくては、ということだが。「作家」は、「虚構をものする人」ではなくて、「現実との関係を新たに教えてくれる人」ではないだろうか。その意味で僕は「作家の言葉」を切望しているし、自分も作家になろうとしている、と言えるかもしれない。
  • ひきこもりを「政治的敗残」と見ている僕にとって、苦しんでいる人が「政治的に有能」になるのは大事なこと。それは「言葉のあやつり方」がうまくなるということだと思う。そういう訓練を促してくれる言葉をも、僕は「作家」に求めている。
  • 本を読まない、過去の知的遺産に興味のない若者に「古典を読め」「私の発言を聞け」と説教しても空しい。これは、自分がなし崩しに餓死してゆくことを覚悟して引きこもっている当事者に「家を出ろ」「働け」と言うのに近い。では、何が必要か。「誘惑」だ。魅力的なものを示すこと。やってみせて嫉妬させること。参加意欲をあおること。正論はそれ自体としては「魅力的」とはかぎらない。
  • 有能なラジオ・パーソナリティのような存在にならなければいけない、と思う。魅力的な情報発信者であり、その人の存在と固有名詞を通して、リスナーが未知の情報に馴染める。そういう人が増えれば増えるほど、お互いに訓化されて豊かになる。パーソナリティーはその意味で最も「現実的」でなければならない。ひきこもりの親の会に来ている親御さんたちの顔を見ながら、いつも「俺の言葉はこの人たちに届いているのか」という気持ちになる。うわごとのような言葉と、意識的な理論言語とが結婚しなければならない。さもないと「現実的」でないと思う。
  • サブカル言語でひきこもりを語る必要がある。これまで引きこもりは、親世代のメインカルチャーの言語でしか語られてこなかった。親の会のサイトhttp://www.khj-h.com/の言語がなんとも異様に無惨なのは、親世代の言語がこの現象をうまく扱えていないことを示している。
  • 「配慮」(ハイデガー)の極限化としてのひきこもり。極限の配慮は、逆に周囲にとって「リスク」となる。
  • 「30歳以上のヒキは氏ね。っつーか自殺しかないだろ(w」。血の気が引く。僕が2ちゃんねる用語を使えないのは、「笑われるのは自分だ」という意識があるからではないか。