【引用】 主観性の危機

自明性の喪失―分裂病の現象学

自明性の喪失―分裂病の現象学



強調は引用者。

 自分は《人間として》だめだ、問題が次から次へと出てきて、わからくなってしまう、自分は《立場》がはっきりしていない、《しっかりした》人間ではないから (p.61)

 《あたりまえ》(Selbstverständlichkeit)ということが彼女にはわからなくなった。 《ほかの人たちも同じだ》ということが感じられなくなった。 (略) 不自然な、へんてこなことを一度にたくさん考えたりした。 なにごとも理解できなくなり、なにをしてもうまくゆかなかった。 彼女はなにひとつ信じられなくなった。 (略) 《他人との関係も》、《自分の立場も》、信頼も、もちろん母親に対する信頼も、それに対人関係も、何もかもすっかり消えてしまった。 (pp.65-6)


 自閉的な自己中心性と無防備の無邪気さとが、また極度の閉じこもりと周囲のなすがままに任せる主体性のなさとが同時に併存していて、 (p.67)

 何ヶ月もの間、患者は同じ悩みと同じ疑問をいやになるほど根気よく、単調に繰り返しつづけた。 (p.68)

 自分では考えが途切れる、急に《なんにもわからなく》なる、と言っていたが、真の意味の思考奪取*1は確認できなかった。 (p.69)


 彼女は遭遇するすべてのものから強い衝撃を受け、あらゆる不意の出来事が彼女の人格構造の統合に深い傷跡を残すのをいかんとも防ぎがたいようだった。 (p.71)


 知能や想像力は優れているのに、実生活での対処能力が全般に及んで低下していることや、体験領域全般が狭められて周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていることなどは、精神力動的に見れば、圧倒的に押しよせてくる体験内容に対する防衛機制と見なすことができた。 (p.71)

 患者が自分の変化について語るというよりは、彼女の変化それ自体が必死にことばを捜して自分自身を言い表そうと求めている (p.72)


 〔≪≫内は、のちに23歳で自殺したアンネ・ラウ本人の言葉〕: ≪私に欠けているのは何なんでしょう。ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないようなこと・・・・。家でお母さんとは人間的にやっていけません。それだけの力がないのです。そこにいるというだけで、ただその家の人だというだけで、ほんとにそこにいあわせているのではないのです。 (略) ちゃんと指導してくれる結びつきが要るんです。でないと、なにもかも人工的になってしまいます。なにもかもなくしてしまわないように、いつも気をつけていなくてはならなくなったのです。生きていくということは、そのひとの(これは明らかに母親あるいはそれに代わる人のことをさしている)やりかたを信頼することです。 (略) 私にはごく簡単な日常的なことがらについてもまだ支えが必要なのです。 (略) 私に欠けているのは、きっと自然な自明さということなのでしょう。≫ (pp.73-4)

 時おり彼女は、《感情の自明さ》ということばも用いていた。 (p.74)

 ≪誰でも、どう振る舞うかを知っているはずです。誰もが道筋を、考え方を持っています。動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、誰もがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきり分からないのです。私には基本が欠けていたのです。だからうまくいかなかったのです。ものごとは一つひとつ積み重ねていくものなのですから・・・・
 私に欠けているのは、きっと、私にとって分かっていることが、他の人たちとの付き合いの中ででも――ごくあたりまえに――わかっているという点なのです。それが私にはできないんです。だから私にはぴったりこないことがたくさんあるんです。ほんとにおかしい――わからないのです。他の人たちはそういうことで行動しているんです。そして誰もがともかくもそんなふうに大人になってきたのです。≫ (p.74)

 《現実のうちにとどまるのがとてもむつかしいのです》。 彼女は《感じからいうと別の世界にいるような》気持ちがしているという。 (p.87)


 以下に行なわれる現象学的解釈の主題である自然な自明性の喪失は、臨床診断にとっての症状として観た場合にはほとんど無価値なものである。つまりそれは特異性を有してはいない。それは分裂病以外のいろいろな精神病理的諸現象の中にもさまざまな程度にあらわれるものであるし、それのみかそれが微量に混入することはすべての健康な人格の発展に刺激を与える契機ともなる。 (略) それはむしろ、人間的現存在の示すある全く特定の――したがってある意味では極めて特異的な――方向への変化を研究する糸口として役立つのである。逆説的な言い方をすれば、ここでは非特異的なものの特異性こそが問題になる。 (p.96)

 ヤスパースは、内省が無媒介性の中へ「着生」(Einbau)するということを言った。彼によると、いろいろな障碍が起こってくるのは、《あらゆる内省傾向に抗して維持されるわれわれの生の自明性、無頓着性、無問題性》を保証しているこの着生のいとなみの自然な《流れ》が乱れる時である。 この着生が帯びている「自然さ」は、極めて重要な問題のように思われる。 (p.101)

 「安心感を必死に求めるだけに明け暮れているかぎりは解放されるということもないのです」(エリザベート・H) (p.105)


 アンネは自分に欠けているものが最も簡単なことであり、最もありふれたことであることを繰り返し強調した。しかし一方、それが同時に何かとても大切なこと、それどころかいちばん大切でいちばん根本的なことだと思わざるを得なかった。 ≪いちばん単純な事柄すら分からないなんて、本当におかしな気持です≫。 しかしこの単純なことこそ、≪生きていくためにとりもなおさず必要な≫ことであり、それがあって初めて≪人間的にやっていく≫ことができるようなものである。 (p.106)

 ≪健康な人だったら、物事と取り組んで、どんどんやっていけます。健康な人には何かを判断するための基盤があるのです。私はいつもいろんなことにかき回されてるんです。それでなにもかもがまとまらないのです。≫ (p.135)

 ≪なにか仕事をみんなで一緒にすることになったとき、それが長続きしない、うまくゆかないのです。たとえば洗いものなんか――むつかしいのは、何が難しいかということ、どう言ったらいいのか――私にはそれが当たり前のこととしてはできないのです。何か変な感じなのです。無理をしていなくてはならないのです。それで私の心が駄目になってしまう。すっかりくたびれてしまいます。どんな仕事でもそうです。刺繍をするときとか――ただ仕事をしているというだけ――そういう物事だけしかなくて――私の心が伴っていません。からだの力がなかったらもうだめ(この上なく絶望的な調子で)そしたらもうできなくなるのです≫。 (彼女が言っているのは、そのときそのときの特別な仕事のことだけではなくて、自分が生き続けていくということ自体のことである。) (p.140)


【付記】

  • 「意識のまとまりをつくる」という事象は、プロセスとしてそんなに簡単な仕事ではない*2。 この危機は、人間という事態にともなう困難であり、これを無視すれば、ピント外れの考察に終始することになる。




*1:「思考が抜き取られる、漏れてしまう」ように感じる体験(参照)。

*2:観察対象として簡単でないだけでなく、論じている自らを組織することの難しさがある。 論者は、どうやって自らを組織し、関係性を維持しているのか。そこを分析できないメタごっこが横行している。 いわゆる「当事者発言」も、このレベルを完全に無視している。

【引用】 自由と狂気

ジャック・ラカンの『エクリ』より:

 狂気の危険は、そこにおいて人間が自分の真実と自分の存在をともに賭してなす同一化の牽引力そのものによって測られるからです。したがって、狂気は人間の生体のもろさの偶発的な事実などであるどころか、人間の本質のなかで開かれるある断層の不断の潜勢性なのです。狂気は自由に対して《侮辱》であるどころか、その最も忠実な同伴者でありますし、その動きに影のようについてまわります。そして人間の存在というものは、狂気なしには理解され得ないばかりでなく、人間がもしみずからの自由の限界として狂気を自分のうちに担わなかったら、それは人間の存在ではなくなってしまうでしょう。 (邦訳『エクリ 1』p.287、一部改変)

 For the risk of madness is gauged by the very appeal of the identifications on which man stakes both his truth and his being. Thus rather than resulting from a contingent fact ---the frailties of his organism--- madness is the permanent virtuality of a gap opened up in his essence. And far from being an "insult" to freedom, madness is freedom's most faithful companion, following its every move like a shadow. Not only can man's being not be understood without madness, but it would not be man's being if it did not bear madness within itself as the limit of his freedom. (英訳『Ecrits: The First Complete Edition in English』pp.143-4)

 Car le risque de la folie se mesure à l'attrait même des identifications où l'homme engage à la fois sa vérité et son être. Loin donc que la folie soit le fait contingent des fragilités de son organisme, elle est la virtualité permanente d'une faille ouverte dans son essence. Loin qu'elle soit pour la liberté « une insulte », elle est sa plus fidèle compagne, elle suit son mouvement comme une ombre. Et l'être de l'homme, non seulement ne peut être compris sans la folie, mais il ne serait pas l'être de l'homme s'il ne portait en lui la folie comme la limite de sa liberté. (原書『Écrits』p.176)