場所の方法論

酒井泰斗さんから、真摯なレスポンスをいただいています。

お返事したいこと(それに関連して勉強したいこと)はたくさんあり、ここから生み出していける展開が重要になりそうな、揚げ足取りとは言えないやり取りになっていると思います。 すべてにお返事していると膨大になってしまいますが、なるだけ直接返答します。

      • ※以下で私は、いくつもの引用・参照を行なっていますが、このブログで述べる内容は、あくまで上山個人の私的見解にすぎません。 特に、参加した論集(参照)の関係者からは多大なご教示を頂いていますが、「書籍の意見を代表してこのエントリーを書いている」といったことでは全くありません。 積極的知見で恩恵は受けていても、発言責任は私にあります。


「取り組み主体の構成プロセス」

最初にこちらから:

    • 【上山からの引用】: エスノメソドロジーでは、「研究者自身にとってもこの活動は臨床的意義を持ち得る」という、取り組み主体の構成プロセスのモチーフが見当たらない(⇒樫村愛子)。[...]

 ここで言われている「取り組み主体の構成プロセスのモチーフ」とはどんなものでしょうか。
 「取り組み主体」とは誰のことですか?



できるだけ実直に言葉にすると、以下のようになります*1

  • 既存の言説事業は、解明しようとする対象を言葉にする、その「内容」ばかりに気を取られていて、そこで自分が従事している事業の態勢を忘れている。
      • 酒井さんからの引用: 【[1] 経験科学の目標・理念は「対象に関する(真なる・新規性のある)知見を獲得すること」であり、 [2] 通常それは、「理論構築を介した因果的説明」とか、「理論-と-方法」といった形で定式化されるが、 [3] エスノメソドロジーの場合、前者[1] については通常の経験科学と一致するが、後者[2] については一致しない(=別のやり方をとる)のだ。】(引用ここまで)
      • 私は、ある厳密な分節を必要としていますが、それが「通常の経験科学」と違っているとして、どう違うのか。「別のやり方」として、エスノメソドロジー(EM)はどう参照できるのか。まだうまく言葉にできていません。そしてそれこそが焦点です。「別のやり方」による必要な事業の定式化が、まだなされ切っていません。
  • 考えたり、つながったり、存在したりするときに、私たちは場所として、プロセスとして自分を構成する。 それは抽象的な空間(Raum)より前の、時間的に生きられる場所(Ort*2である。 抽象的空間としての Raum は、むしろ場所が構成される時の一つのスタイルであり、その結果的な構成物にあたる。

これはハイデガーを参照していますが、
20世紀にハイデガー哲学を参照して展開された精神病理学現存在分析)は、生物学的精神医学にすっかり圧倒され、行き詰まっています(参照*3。 ですので、私がわざわざこんな言葉づかいをしていることの大きな野心としては、

    • 生物学的精神医学を無視せずに、しかもそれ単独とは別の切り口で取り組めないか

ということで、それもただハイデガー(or それを参照した内外の精神病理学者)に言及すればよいとも言えない。 そこでどうしても譲るべきでない焦点が、「論じている自分の側のプロセス」ではないか――というのが、ここでの見立てです。 自分のことを「精神病理学者」と呼ぶかどうか*4は別として、自分の言説事業*5が秩序化されるあり方を検証することなしに、「精神病理学を再興する」などと言っても、そこで仕組まれていた設計図に服従することにしかなりません。(逆に言うと、日本語で読める範囲の「精神病理学」にも、いまだ満足できないわけです。*6


酒井さんがお尋ねの件で、私が「取り組み主体」と言ったのは、
事業趣旨を提示できる “臨床家”*7であり、自分の苦しさに取り組む “患者” であり、その関係性が埋め込まれた環境の構成者全体でもあります。 エスノメソドロジーでいう、「メンバー」がそれに当たると思われます。

 メンバーとは、「常識的知識を適切に用いることにより、自然言語を使いこなして事態を記述できることを指す」(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.7)



自分をふくむ「人々」は、関係し合いながら自らを構成しお互いを受け入れあう(拒絶しあう)ので、一人のプロセスだけを取り上げても正当な捨象にならない。 ここでは、集団的な意思決定(その手続きや秩序化の実際)が、内面事情の苦痛緩和に内在的な問題になります。 意思決定の手続きである「学問の方法論」や「政治体制」と、《臨床上の技法》が、分けて論じられない。


私ひとりが言葉を尽くす前に、既存書籍で関連するところを引いておきます(強調は引用者)*8

上山和樹 〔80年代に流行した、フェリックス・ガタリの精神医学系言説について〕 要するに、わかりきった左翼のイデオロギーを肯定するために難しい言葉を並べてるようにしか見えなかったんです。実は三脇さんと知り合ったあとも、何年間かはそういうものとしか思っていなかった。「制度論」とかなんとか、まあ反体制的な精神医学なんだろうなと。それが、イデオロギーを押し付ける運動論とは逆の動きをしているらしいことに気付いて、興味が出てきた。むしろ、すでに成立している考えや制度を自分で分析するんだと。 〔以下、鉤カッコ内は引用〕「制度論を成立させるために何よりも重要なのは、平凡さに向き合う勇気と粘り強さである」*9。 大事なのは、新奇な単語よりもむしろそっちでしょう。文脈の勉強として単語や思想家の名前が必要なのはわかるんですが、取って付けたようなカタカナ言葉を持ってきたって、自分の置かれた状況を分析したことにはぜんぜんならない*10
三脇康生 そもそもガタリなどが概念を作り出したのも、もとは彼らの置かれた状況に取り組む中での「苦肉の策」だったはずなんです。先ほど出た「スキゾ分析」というのも、スキゾの人が耐えられる環境をつくるための分析という意味で、スキゾよりはむしろ「分析」に力点があった。バラバラな状態を理想化してそれに順応するということではなくて、その状況に耐えられるように、分析的に介入していく。
上山: スキゾの全面肯定じゃないということですね。そこはもう、脱力するぐらい「話がちがう」。どうやら制度論やスキゾ分析というのは、主体の立ち上がりの、そのプロセスに焦点をしぼった話らしくて。状況の組み直しや分析労働がフレームを与え、それがそのまま本人にとっての治療過程になっている。その「本人」というのは、論じているスタッフでもありますね。徹底して「プロセスの危機」に照準した、非常に独特な疎外論だと思うんです。
三脇: ラ・ボルド病院の院長のジャン・ウリにまさにそういう趣旨の博士論文があります。「美的努力に関する試論(Essai sur la conation esthétique)」という論文です。美的努力つまり制作プロセスを継続するためには「患者もスタッフも美に飲み込まれてしまわないように、制度分析を継続しなければならない」という結論に至る論文です。制作プロセスというのは芸術領域だけでなく、生活領域でも同じことが考えられます。 (略)
上山: 私は、アカデミズムと支援現場、双方のフィールドの方とお話しさせていただく機会があるんですが、お互いの間で、「言語」が違ってしまっていますね。



この文脈での「美に飲み込まれてしまう」は、固定された指針に巻き込まれ流されることであり、エスノメソドロジーに言う「判断力喪失者*11に重ねられるかもしれません【酒井さんにご指摘いただいた通りです(参照)】
判断力喪失者は英語で「judgemental dope」ですが、dope という、依存症にかかわる言葉が使われているのがたいへん示唆的です。 それは「cultural dope」でもあり、文化フレームの現場的な換骨奪胎が問題になっている。 価値観や視線のフレームに嗜癖し、そこから抜け出せずにいること――それは既存社会学を批判する文脈だったかもしれませんが、期せずして “臨床的な” テーマ設定にもなっている。 【たとえば私は差別主義者を、「差別的目線を生きることへの嗜癖症者」と理解しています。 あるいはまた、間違った悩み方に固執する人は、その方法論に「嗜癖している doped 」。 多くの医師は、DSM的なカテゴリー目線に嗜癖している。】



*1:とはいえ、既存文脈を参照しながら問題を再構成する作業に、これから何年もかけなければいけない、と感じています。

*2:【エントリー数時間後の追記】: 今回私は《場所 Ort 》という考えを参照していますが、それがハイデガー思想全体のなかでどう位置づけられているか、EMの概念構成とどう違うのかなど、まだとても論じられません。 問題があれば、ご指摘いただけるとうれしいです。 (私はそうしたことにも、「苦痛緩和にとってどういう積極的な意味があるか」という切り口で興味を持つことになります。)

*3:酒井さんは十分ご存じと思いますが。

*4:あるいは、医師でない者にそんなことを名乗る権利があるかどうか

*5:と、そこに設計図として仕組まれた関係構図

*6:まだまったく勉強途中ですが

*7:あるいはここで、《social worker》という言葉を使いたくもなっています。 生物学とは別の臨床趣旨をもった事業を、社会学ではなく、《social work》と名指せないものか。 それは単に医療目線に服従するものではなく、独立した意義と指針をもつ――と。

*8:冒頭の私の発言のみ、出版された書籍ではなく、テープ起こし後の草稿から転載しています。 こちらのほうが、エスノメソドロジーとのつながりが見えやすいと思ったので。

*9:学校教育を変える制度論―教育の現場と精神医療が真に出会うために』p.6、三脇康生による序文

*10:これは部分的に、酒井さんの疑問:「上山さんがなぜ・どういう必要があって「支援現場でアカデミックな」語り方をしようとするのか」(参照 へのお返事になっていると思います。 とはいえこの件は、あらためて取り上げ直します。

*11:エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.77参照

「重要な社会問題」vs「あたりまえの日常」

酒井さん32より(強調は引用者):

 エスノメソドロジストが取り上げるトピック(or 対象領域)は、「苦しみのある」ものには限られない、ということです。 (略) 社会学業界の間でEMの悪名を高からしめた理由のひとつは、まさに、

  • 社会には「問題」や「苦しみ」が実際に生じているのだから、社会学者はそうした「取り上げるに値する事柄」を扱うべきであるのに、エスノメソドロジストは しばしば「ありふれた・あたりまえの・トリヴィアルな──したがって、取り上げる価値のない──事柄」を扱っている

ということだったわけですから。 いま私は、さしあたって直接には、

  • 「EMは、問題のあること・苦しみの生じているところも、問題のないこと・苦しみの生じていないところも、どちらも同じように取り上げる」

という この指摘を、

  • 「EMは 苦しみを和らげる活動としても理解できるのではないか」

という主張への──少なくとも部分的には──「反論」となるもの として対置しようとしています。 それはそうなのですがしかし、同時に直観的に思うのは、こうした姿勢はおそらく、「現実の尊重→苦しみの緩和」へとつながっていく論点でもあるのではないか、ということです。

まさにそう思います。
最初から「これは重要だから、努力しましょう」と言ってしまうと、そこではすでに

    • 何が問題であるのか  と同時に、
    • どのように取り組むべきか

が設定され、固定されています。 社会問題の構成は、取り組み方の構成と同時に起こっている。――その埋め込まれた固定こそが、苦痛の機序かもしれないのに。


エスノメソドロジー的無関心*1」(参照*2を、私は苦痛緩和に必要な技法として、事後的検証の前提条件として受け止めました。 「これは重要である」というイデオロギーを優先させるのではなく、苦痛が内発的にディテールを分節せざるを得ない、その生成の環境整備としての判断停止*3。 宙づりにされた真空状態での分節が、研究者・臨床家・患者のすべてにとって――というか、そういう肩書きポジションをお互いに分節することがその場の関係を変えてゆく。 その一連のプロセスが、そのまま苦痛緩和のプロセスになる。


状況に埋め込まれた秩序が苦痛の形をしているなら、それを変えざるを得ません。 その秩序の生態は、「人々の Ethno-*4」方法というより、自分を含んで生きられる《場所の Ort-方法です*5。 苦痛緩和の努力は、それを記述し・組み替えていく作業になる。

松嶋健 いや、だから自己分析といったときは、自分の置かれている場所みたいなものの分析だから。
上山: そう、場所。 場所という言葉が重要。 場所のメカニズムの分析なんですよ。*6

関係者全員を単独的な当事者にしてしまう*7この事業は、一人ひとりが編みあげられるスタイルを、集団で改善するような努力です。 誰かにラベルを貼って「当事者」にしたり、客観的真理をスタティックに建設したりする作業とは、事業趣旨が違っています。


誰かに頼ればいいというのではなく、むしろ隷属をあきらめることでしか引き受けられないプロセス。『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』でも、けっきょく問題は「当該組織の構成員にかかっている」とありますが(p.257)、記述の《結果》をどうするかだけでなく、メンバー自身の《分節プロセス》にも光が当たるべきではないか、ということです。

    • ハイデガーなら、EMを無視することを、あるいはEMの結果だけを利用することを「頽落」と呼んだでしょうか。 また場所やプロセスの主題化を、私なりの「本来性」と呼べるかどうか。 ⇒【エントリー数時間後の追記】: 私的なつぶやきとしてしか意味のない発言で、お返事に記すには不適切でした。失礼しました。


*1:エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.255

*2:【1月21日の追記】: このリンク先の「エスノメソドロジー的無関心」の説明は、『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』でなされている説明と、意味が違っています。 書籍では、「研究者は、自分たちの価値で対象を評価しない(価値的に判断停止を行なう)」という意味ですが、リンク先では、関心があるかどうかは対象者の問題になって、「人々は、現実は本当は何であるか、何が重要であるかに関心がない(自分たちの方法をわざわざ自覚したり検証したりはしない、ベタに生きてるだけだ)」という説明になっています。 ▼私の酒井泰斗(contractio)氏へのお返事は、すべて前者、つまり「研究者側の手続き的な無関心」という説明(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.255-6を咀嚼)に依拠しています。

*3:それは現象学的還元と同じく、症候のように「向こうから襲ってくる」ものでもあると思います。

*4:「《エスノ》という言葉は、ある社会のメンバーが、彼の属する社会の常識的知識を、《あらゆること》についての常識的知識として、なんらかの仕方で利用することができるということを指すらしい」(ガーフィンケル、『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』p.16)

*5:たいした根拠も説明せずに新しい言葉を持ち出すのは、幼稚の誹りを逃れませんが、「私は今このあたりで考えています」という提示として。

*6:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.232

*7:【エントリー数時間後の追記】: ここ、無理のある言い方をしてしまっています。 関係者の全員に、《単独的な当事者性》を引き受けることを要請しつつ、しかしすでに首尾よく環境順応している人は、わざわざ自分の生きている《場所》なんか、(エスノメソドロジー的無関心に従ってまで)分析してくれないかもしれない。そういう人は、生きられた秩序を分析したり、組み替えたりする動機づけを持っていない。そしてそういう人が多数派だったら、いくら「場所の方法を記述」しても、捨てられてしまうでしょう。――ここで、集団的意思決定の問題に直面します(参照)。 エスノメソドロジーは、記述の結果が受け入れられない(価値を認められない)ことについては、どう受け止めるのでしょう。(また新しい質問になってしまいますが…)

今回はここまでですが、最後に

“臨床的な” 趣旨でハイデガーを参照することが、あながち恣意でもないと思える箇所を引用してみます。

 わたしの最初の手紙に対して彼〔ハイデガー〕が速やかな返事をよこしてくれた本当の動機がわかったのは、ずっと後になってからのことだった。あるとき、自分から打ち明けてくれたのだが、ハイデッガーはもともと、自分の思惟を十分に理解してさらに展開してくれそうな医者との関係を熱望していたのである。彼は、自分の哲学的洞察が哲学者たちの書斎でほこりをかぶっているだけでなく、もっと数多くの、とりわけ助けを求めている人々のためにもなりうる可能性を知っていた。 (『ツォリコーン・ゼミナール』p.iv、精神科医メダルト・ボスによる前書き)