提供される《場所》のちがい

私は、「再考察の機会」という意味での《場所》を、ブログなり会話のプロセスとして提供していたのだと思う。 それに喜んでくださる人も多くいた。 「ここでなら、考えてもいいんだ」
ところがまた別の人たちは、自分のことを全面受容してくれるという意味での《場所》*1を求めていたし、支援者も、幼児対応でいいから「とにかく受け入れる」という姿勢で、だから《再考察の場所》は拒否される。


私に嫌がらせをした「当事者」や、発言活動をやめさせようとした「支援者」「研究者」たちは、私のような再考察の場所を排除することで、自閉的な受容共同体を作ろうとしているんだろう。 私からすれば、それは引きこもりのメカニズムを強化するマッチポンプだが、彼らなりの共依存が成立してしまえば、それ以上の動機づけは難しい。


《再考察》を拒否し、自閉的メカニズムはそのままにして、そのくせ私に「都合の良い環境を作ってほしい」という。――これはけっきょく、私を道具として利用しているだけだ。 それでも再考察を呼び掛けると、「利用価値のない邪魔な道具だから嫌がらせをして排除しよう」と。


今日気付いたことだけど、何か決定的な気がする。

      • 【追記】: ひきこもりの業界だけがそうではないし(だから《社会性》そのものについて考え直さざるを得ない)、私がその業界から恩恵を受けなかったわけでもありません。自分も引きこもらざるを得なかった私が、自分と環境のどちらかを単に否定するのではなく、《問題への取り組みかた》を考え直す作業です。 「問題を解決しようとすることが、ますます問題をこじらせる」というメカニズムを、軽く考えるべきではない。(単なる真面目さも、単なる投げやりさも、自分をふくむ《場所の方法》を放置することです。)




*1:ネット内外

1月17日、東遊園地

震災から15年たつが、この日付で立ち寄ったのは初めて*1
夕方5時46分からの黙祷に参加。 少しだけ15年前の空気を思い出す*2
モニュメントにも立ち寄り、供えられたお花などを見ながら、1時間くらい過ごす。

夜11時から、NHKドラマ『その街のこども』を視聴*3

「面白いお話」ではなくて、こういう趣旨のドラマをもっと見たい。
要するに私は、体験を検証するための《場所》になるような作品を求めているし、自分のその欲望に、社会的な居場所を与えようとしている。(それは、「自分個人が全面肯定される」のを望むこととは違う。*4

    • 自分で物語ることも含めて、「ドラマ仕立て」というのは、体験を捉えなおす補助になる。しかし一方でそれは、主観的な思い込みの暴力を忘れてしまう。 何かが《組織される》というのは、どう頑張っても暴力になってしまう。 「当事者の語る物語だから、全面肯定されなければならない」のではない。 それは検証素材(リマインダ)に過ぎない。 ▼逆に言うと、「組織すること」の暴力を恐れていると、何もできない。何の手続きもない、「暴発」しかできなくなる。
    • 「当事者の語る物語」を全面受容するしかない文化に、私は別の《場所の作法》を持ち込もうとしている。 ▼個別の「重要な問題」ではなくて、むしろベタな作法とは別の、《場所=関係》の作法をこそ位置づけようとしている。


【追記】:「神戸新聞の7日間」視聴率19・3%

こちらは放送を知らなかった。 再放送希望…



*1:被災時の私は神戸にいましたが、家族はタンコブ程度だったし、身近な誰も亡くなっていないし、家も補修で済んでいます。――私にとっては、喪失やダメージというより、「原体験」です。

*2:上空にはマスコミと思われるヘリコプターが4台いて、黙祷のあいだも凄い爆音。それも15年前と同じ。

*3:森山未來は、方言が自然なだけでなくて、演技が本当にうまかった。

*4:言葉への欲望の承認は、《存在》として承認されることとは別のものだ。