主観的意図と、集団の体質

  • 「どんな人でも受け入れる」というイデオロギーが、逆に場所の思想を均一化する。 すると、その場を支配する承認ロジックに嗜癖した人が、異端的分析を糾弾し始める*1。 小集団での「思想の多様性」は、そんなに簡単な話ではない。
  • 主観的に標榜された運動イデオロギーで、正誤を判断してはならない。 主観的には、たいてい「正しく思えること」しか言っていない。 考えるべきは、「その思想は、どのような《つながりかた》をもたらしているか」。
  • 集団の体質を問われるべきであるのは、一流企業も、大学も、ヤクザも変わらない。 もちろん身近な友人も、家族も。
  • 孤立した相手には居丈高なのに、相手が「強い」と、その集団体質まで全面肯定してしまう――こんな話しかできないのであれば、生きられた集団の体質が無批判に押し付けられるしかない*2


*1:参照:「レポート 『不登校は終わらない』 不登校の経験やその本人を肯定しようという趣旨が正しいということと、それを標榜した集団がどういう体質であるのかは、別の検討課題だ。

*2:社会参加に成功した人は、たいていは順応できた自分をベタに誇示するだけで、《生きられた順応》を検証するモチーフがない。

参加の影響関係を分析してみる

概念分析の社会学』より:

 「ループ効果」 (略) は、

  • 人々の分類・記述に用いることができる専門的な知識や概念や方法が日常生活に提供され,
  • 分類・記述された当の人々によって、それらの分類・記述が、引き受けられたり・拒絶されたり・書き直されたりする

といった現象のことを指す言葉でした ナビゲーション2

 ウィトゲンシュタインは、こうした概念の結びつきの変化を、「河床を流れる水の動き」と「河床そのものの移動」との区別になぞらえています。ループ効果のただ中において生じる概念の結びつきの変化を記述していくという本書の作業は、何が「河床そのもの」として働いており、何が「流れる水」として動いているのかを、区別して記述していくことでもあるのです。 ナビゲーション1

 さまざまな概念の実際の用法を記述し、またそうした用法から一連の概念の関係を把握しなおしていく作業のことを、彼(G.ライル)は概念分析と呼んでいます。 はじめに



集団に埋め込まれたピースの一つひとつである個人は、お互いの参加事情に影響を与えあっている。
 ⇒「概念分析」がなされるように、各個人の「参加分析」を考えることはできないだろうか。

    • 一連の参加の関係を把握しなおしていく作業。
    • 「あなたがそういうスタイルに固執していると、私は排除されてしまうんですよ」*1
    • 参加分析する側が排除されていたり、排除する主体だったりする。


*1:単に量的に「椅子取りゲーム」を問題にするのではなく、参加の質(スタイルやロジック)を検証する