謹賀新年

ひきこもっていた状態から抜け出して、もうすぐ9年になる。
その間、「もう二度と人とは関わりたくない」と思うことばかりだった。
バカな環境を改善するのが仕事だと思う。
(その労働こそが、彼らの攻撃対象なのだけど)


それでも続けようと思うことを、大事にしようと思います。
今年もよろしくお願いします。







「正当化の労働」を分析すること

現今の言説は、当事者語りが目指すことと、学者語り*1が目指すことが解離していて、その解離を問題にできていない。


いわゆる“当事者”
「自分の苦しみ」*2
医師・学者・知識人  「メタで客観的な言説によって自分の存在と言葉を正当化したい」*3 

この両極しかなく、かつ「学者」と「当事者」は、それぞれが個人内でこの解離を生きる。 「学者」は自分を語り始めるとくだらない自分語りであり、「当事者」は、状況を語るとベタな学者言説になる。 正当化のスタイルがバラバラのまま、個人内で縫合されていない(労働プログラムが解離している)。

“当事者”側が学術を語るときも、学者側が当事者性を論じるときも、「相手の言葉で語る」だけ。 立場を固定したままだから*4お互いの言葉がはまり込んでいるプログラムそのものが問題にされない。 そこを話題にすると、努力のナルシシズムに抵触して激怒される。

他者を不当に蹂躙する暴力はここにある。 ここでこそ、集団のあり方が分析されなければ。 ところがフーコーなど持ち出す論者たちは、誰かが真剣に考えてさえいれば「強靭かつ繊細に思考した」などと修辞で丸めこむ。 その《真剣さの制度=装置》をこそ分析せねばならないのに。 ▼社会を生態学的にみれば「若い世代」と褒めそやされ、生態学を語るナルシシズムはまったく分析されない。(メタ言説を語ることが、正当化労働のナルシシズムになっている。実存を無視して語ることで、語っている本人の実存は無傷で保存される。これは、社会的に武装された分析拒否になっている。)

どういうスタイルで自分を正当化しているか。――その事情への分析は忌避され激怒され、防衛反応的に軽視される。 どれほどていねいに分析しても、「当事者性に依拠してしか語っていない」と言われるのだが、その批判自体が、メタ言説への信仰でしかない*5。 足元の分析をすればするほど、「仕事をしていない」と見なされる。 この非承認は、政治的な排除にあたる。――私は、それが臨床的にも致命的であることを問題にしている。





*1:医療化する医師の語りは、それ自体がメタな「学者語り」になっている。

*2:苦しみを語るフレームは対象化されない

*3:自分の生産物(語られた内容)だけを問題にする語り方

*4:立場をカテゴリーで分類して語っているだけなので、たとえば「当事者」が正社員や学者になるだけで語りをごまかすしかなくなる。――本当に問題にするべき当事者化は、すでに生きている態勢を問題にできるかどうかであり、「今の自分が弱者であるかどうか」ではない。 逆に言うと、学者はメタ言説さえやっていればいいのではない。 学者には学者で当事者性(運動性の余地)がある。 ▼措定する必要があるのは、当事者のプログラムだ。

*5:勉強は、自己検証のレベルを上げるためになされる。 「メタの世界に棲む」ためではない。 むき出しの「現在化=当事者化」のためだ。

当事者性は、「再検証=素材化」にある

電車に乗るのが平気な人にとっては、「電車に乗れない」のは甘えになる(参照*1
「成人男性のくせに猥談が耐えられない」のは、男社会では甘えや未成熟と見なされる*2


一般の人は、当事者発言を「しない」ことで生き延びる。 嘘をついて、「自分はちゃんとやっている」というアリバイを確保したことにする。 当事者性は、「弱者であること」ではなく、「検証すること」にある*3。 「当事者発言」の本当の危険は、ここにある。 ▼「弱者支援」という大義でアリバイを確保する左翼・リベラリストと、そのイデオロギーで居場所を確保した “当事者” たちは、自分の当事者性を話題にされることを極端に怖がる*4。 確保した正当性に、傷が入るかもしれないからだ。(私は彼らから、執拗に攻撃される。じつは「再検証=当事者化」の運動こそが、“当事者”サイドからの最も激しい抵抗に遭う。)


自分は、うまくできていないかもしれない。 それを「検証する」ことは、単に「自己否定する」ことではない。 静止画像としての自分を否定し続けることは、むしろ否定する自分を絶対的に肯定し続けることだ。 だから自己否定的なナルシシズムは、じつは非常に傲慢だ。 自分を否定する構造を無批判に固定している。
支援者とは、「自分を当事者にする者」=「自分を検証する作業に身をさらす者」のことであり、自己検証を拒否しているなら、関係において傍観者にとどまる。 「ひきこもりの経験者」であっても、自己検証を拒否するなら私は関係は維持できない。

 目の前で嫌がらせがあった。 しかし「あった」と言うと、止めに入らなかった自分の責任を追及されるし、嫌がらせを受けていたのは政敵だ。 「何も起きなかった」と言うことで、自分の責任は回避できるし、相手をつぶすこともできる。

これが “正常な” 社会人の処世術だ。 ひきこもり支援者の、被支援者に対する態度も例外ではない。 支援される側同士においても同じ。 「社会的な正当化」は、関係者における政治的選択だ。



*1:石川良子『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (青弓社ライブラリー (49))』(p.36-7)が、この個所を取り上げてくださっている。

*2:私への嫌がらせを続けた男は、そこにつけ込んだ。 猥談なら、「常識の許容範囲内」で、一般には信じられないほど強いダメージを私に与えられる。 後で追及されても、「嫌がらせなんてしていません」と言い張れる。 ▼露骨な男根社会に適応する男たちは、性的弱者の傷を、さらに自意識で痛めつけようとする。

*3:「当事者」という語をめぐる拙ブログのかつての言葉づかいに、今の私はいたたまれない。

*4:性的弱者である私に、恥ずかしくてたまらない「当事者発言」を要求する自称「支援者」は、自分の性的いきさつを語らない。 セクシュアリティについては、当事者でない人間などいないだろうに。 そして、健全に性愛生活を送れている男が(自慢とは別のしかたで)性愛関係を分析するところに、「いま営まれている関係」への分析があるだろうに。――男たちは、人数自慢やモテ自慢はしても、「どうやって傷つけたか」は語らない。 傷つけた理由になった自分を改善することもない(有名知識人まで含めて)。 検証の必要ではなく、「自分は結果的に正しい立場に立っている」ことばかり話したがる。――要するに、「男の子の自慢話」なのだ。