結論ありきの支援論

朝起きるたびに、「順応するしかない」を思い出して吐きそうになる。
どこへ行っても、順応強迫のナルシシズムしかない。


「社会参加しなければならない」――着地点が先に決まっていて、あとはそれに合わせてできるかどうかだけが問題になっている。 課題だけが先に硬直して決まっていて、私はそれに合わせるしかない。 私の揺らぎより前に課題だけがある。 私はノイズでしかない。 だったら、生きている人間よりも課題だけが残ったほうがよい。


「生きなければならない」という課題だけがメタに先に決まっている。 《着手》こそが大事なのに。 取り組みのプロセスは徹底して置き去りにされる。 そこでこそ、支援者たちも自分の当事者性を忘れている。 だから追い詰めるばかりになる。 《着手》がなくて、《順応》の話ばかりになる。 「順応できた」の傲慢な自己顕示ばかり。


「生きなければならない」という課題だけを決めて後は本人を特権化するだけでは、メタなアリバイのもとで家族を監禁し、本人を順応主義に放置することになる。


順応強迫に苦しんでいる問題なのに、支援者や研究者自身が順応主義の形しかしていない。 それに、ひきこもる側の予定調和的な下心やナルシシズムが加担している。 「順応したい」が先に来るほど、結果的な順応は遠のく。 順応主義の倒錯者になるしかなくなる。





「過激な理論と、惰性の現場」ではなく

斎藤環氏が、某氏のような「ちゃらんぽらんな」支援者を気に入るのは、みずからがメタ的アリバイを確保し、臨床では「いい加減さ」においてしか風通しを作るすべを知らないからだ。 「理論は過激に、臨床は素朴に」*1


しかし、必要なのはメタで厳密なアリバイを確保して臨床でいい加減になることではなく(それではメタな超自我はいつまでたっても検証されない)、現場のロジック自体が厳密に分析され、現場そのものが具体的に組み替えられることだ。
場所自体を論点化し、厳密に分析した上で、アドホックに現場を再構成すること*2。 メタとベタの往復であるその努力を、つねにリアルタイムに続けること。 「ちゃらんぽらんに」ではなく、可能な限り精密に組み替えの努力を続けてゆくこと(文章をていねいに表現するように)。


メタに硬直した超自我が一つだけあるのではなく、実際に生きられた創る作業の中で、その場を基点に超自我自体が仕切りなおされること。 その創り直しの作業として、分析が労働過程として生きられること。 理論と現場を分け、理論だけが工夫されるのでなく、現場自体が着手と試行錯誤となること。


「理論的観察者」がちゃらんぽらんに同席するだけの現場は、視線が硬直しており、その現場自身が病んでいる。



*1:ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (シリーズCura)』あとがき。 素朴な臨床は、「メタ的で理論的な観察者」の実験場にしかなっていない。

*2:家庭でも、職場でも、支援現場でも。 あるいはどんな人間関係でも。