「欲望枠」の政治
誰もが、「自分を、自分の作り出すものを欲望してほしい」。 自分がすでに生きている欲望を欲望してほしい。 ▼「誰かの欲望に感染する」「他者の欲望を欲望する」「人間の欲望は他者の欲望」というよりさらに強烈なのは、「自分と同じものを欲望してほしい」ではないか。 そこには主意主義が成立している。
欲望の「対象」を共有してほしい。 さらに進んで、欲望の「枠組み」を共有してほしい。――ここでは、共有してほしいもののメタレベルが上がっている。 しかし、「欲望を共有してほしい」という事実そのものは残る。
「外部を、倫理的なものを共有してほしい」――としての、メタ分析の提示。
被承認欲と分析欲では、分析欲が勝っていないとどうしようもない。
ダメージを持つ弱者の多くは、「自分の苦しみこそ最上級だ」と思っている(いっぱいいっぱい)。 それをお気軽な分析の素材にされることを許さない。 そこに主意主義がある。
ベタに欲望を生きる者には、無自覚な欲望の、メタ分析を拒否した主意主義がある。
自分の欲望をさらけ出したものを否定されるのは非常につらい。
宗教が難しい時代には、実は欲望こそが宗教のように機能していた事実が露わになる。 欲望の話は、「政治と宗教」*1にあたる。 各人の欲望の相違を先鋭化する作業は、お互いの琴線に触る。
知的な努力について反省的に考える場合、「分析結果」の承認・非承認と同時に、「そういうスタイルの分析欲望そのもの」の非承認が怒りの誘発因になる*2。 一つのものさしの中での優劣だけでなく、「欲望枠」相互間でのパワーバランスがある(多数派か、主張強度は、など)。
これまでを振り返ると、「努力の欲望枠を共有できない」ところに、各人の怒りが出現している。
「専門性」とは、社会的に承認された欲望枠
欲望の環境整備に、教育と労働の政策が(一部)失敗している。
「すでにある環境で欲望に成功した者のみが成功し嘲笑する」
「お前はこれを欲望するべきだ」
欲望を実演してみせ、「欲望のガイドライン」を提供するのが教師の役目か。
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