「自己分析」という危険な賭け

ここ数年に自分が経験してきたいくつかのトラブルについて考えてみるに、そこでは、つねに「自己分析」が問題になっていたように思われる*1
私は引きこもりの《当事者》として社会的なチャンスをいただくことが多いため、「自分で自分の苦しみについて考える」、あるいは「自分がどのようなポジションで問題化されているか」を自分で考えてみるのは、最初から立場上プログラムされている*2。 しかし、多くの語り手や活動家においては、「自分はなぜそのようなことをしているか」、あるいはもっと言えば、「どのようにして自分を正当化しているか」の構造や事情*3は、疑ってはならないもの、あるいは、疑う余地もないような自明のことになっている*4
「自己分析」を始めてしまうと、最初に前提していたような自分の正当性は、掘り崩されてしまうかもしれない。 というかむしろ「自己分析」は、そのような自明の前提を宙吊りにし、出来事・会話・関係などについて「カッコに入れ」*5、「一緒に考えてみませんか」と誘いかけるような行為であるはず*6。 ▼自己分析は、穏便な「心理学化」にとどまらない、政治的に危険な行為であり得る。
「○○のために」*7という、滅私奉的なスタイルで自己の正当性を確保した人たちは、そこで絶対的なアリバイを得ている(と思い込んでいる)ため、徹底してイノセントに、「100%の正義の味方」のように振る舞うことができる。 そこには一点の曇りもなく、それゆえ誰にどんな暴力をふるおうとも自分を疑う必要がない(「間違う」ことがない)。 そこでは、「自分のポジションとスタイル」を、自己検証的に再検討するミッションが免除されている*8。 ▼こうしたことは、硬直した「治療主義」の医師や支援者についても言える。
自分の傷をえぐり直し、自分の足場をも宙吊りにするような過酷な《自己分析》*9は、いわば奴隷仕事のような最底辺の労苦にあたる*10。 そのようなチャレンジは、失敗すれば惨めなナルシシズムにしか見えない*11。 しかし、それを「ナルシシズムでしかない」と断罪する人たちは、最初から無条件に正しいポジションに自分がずっと居られると思っていないだろうか。 自分の足場まで含めて、「自分の力で考える」作業をしているだろうか。





*1:一部の人たちにとっては、こんなに不愉快な話題はないらしい――とはいえ、これは実は、歴史的に「精神分析」が嫌悪されてきた理由そのものか。

*2:「当事者」というポジションに無批判的に安住できると思う人もあるようだが。

*3:ナルシシズムの自己分析。 ▼あるいは枠組みを換えれば、「権威づけ」の問題か。 「なんでお前がそれを言うんだ?」問題

*4:それを疑うことは「冒涜」、あるいはその疑い自体が「敵対者の言い訳」にされてしまう。

*5:私はそこに、フロイトの「自由連想+事後的な分析」の分析枠組みを想起したい。

*6:それは、「いっしょに困ってくれない?」と呼びかけるような行為でもあるはずだ。

*7:「○○」の部分には、「プロレタリア」「女性」「障碍者」「不登校」「ひきこもり」など、ある特定の「弱者」が入る。

*8:あるとしても、せいぜい「○○のためになっているか」という問題枠を堅持した上での、「自己批判」だろう。 そこでは、「自己批判した」ことすらも、発言権を得るためのアリバイ作りになる。

*9:これは、「底の抜けた再帰性」と踵を接するだろう。 これも今後考えたい。

*10:奴隷労働が「疎外」を意味する(ヘーゲル)とすれば、自分自身のことを分析する努力が「奴隷労働」であるとは、おかしな言い分に聞こえると思う。 ▼自分自身を、自分の置かれた事情や環境を、自分の属するシステムを、自分から引き剥がし、対象化して考え抜こうとすること。 主人は自己分析しない。

*11:私は繰り返しこういう状態に堕する。 ▼逆に言えば、チャレンジしなければ失敗しない。

「分析スタイル」の相違について

三脇康生氏から、次のようなお話をうかがう機会があった(許可を得て掲載する)。

  • ガタリが「スキゾ・アナリーズ(schizo-analyse)」と言うとき、本当に問題になっていたのは、語句後半の「アナリーズ」のほう。 しかし1980年代には、前半の「スキゾ」ばかりが流行した(浅田彰など)。 ▼ドゥルーズガタリが言っていた「アナリーズ」とは、「ベタとメタの往復」のこと。 単なるベタな「差異と連帯」(肩を組もう)ではない。

これは・・・・
ここ最近考えていた「自己分析」ということ、あるいはさまざまな議論が、
「分析のスタイル」*1という一つのモチーフに、まとめられた。
メモ的に記しておく。

    • 「スキゾ」「横断性」といった(80年代に流行した)ドゥルーズガタリ理解で考えてしまうと、彼らとラカン派との確執も非常に単純に見えてしまう。 しかし、本当に問題になっていたのは、「分析(analyse)のスタイル」ということだったらしい「分析」ということで何を考えるかが、思想や流派によって違っている。 どのようなスタイルの分析を選択し採用するのかが、その言説フィールドにおける権力を構成するのだと思う。
    • たとえば英米系哲学(分析哲学)から見れば、ハイデガー哲学はガラクタの山であり、「詩的な作品」でしかない。 それは「分析」ではない。 ▼あるいは「科学者」は、サイエンスという独特の「分析スタイル」を持ち、これに固執している。 ▼ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』を著したが、たとえば科学でも、「結果が間違っている」ということはいくらでもあり得る。 あの本で本当に問題になっていたのは、「一つ一つの結果」ではなく、「分析のスタイル」だった。
    • 昨年12月の「ゼロ年代の批評の地平トークセッションでは、社会変革へのベタな取り組みの不可能性から、ネタ的な知的分析がえんえんと続く若手知識人の状況(メタ分析のネタ化)が問題化されていた。 「分析して、で、どうすんの?」という素朴な問い。



自分の実存とミッションとの掛け合わされた事情(現実)を当事者的に分析する自己分析は、どうしても必要ではないだろうか。 その熱意と「必要」においては、シニカルな態度が介入する余地はあるだろうか? ▼トラブルが起こっているのに、そのトラブルに、自分の怒りに、シニカルになることができるか。【たぶんできる。でも、それを選択するか。】



*1:強いてフランス語にすれば、「le style d'analyse」だろうか。 ▼検索すると、「l'analyse de style」(文体分析?)はいくつもヒットするが、「le style d'analyse」(分析のスタイル)は事実上一つも出てこない。 なぜだろう・・・