「当事者ナルシシズム」
ひきこもりにせよ何にせよ、「当事者」という言葉の周辺にはつねにナルシシズムの臭気がある。 ▼「哀れなほど 真実を知らないプロレタリア」というつぶやきで締めくくられる『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』第2話「飽食の僕 NIGHT CRUISE」*1では、「正義感ナルシシズムに満ちた誇大妄想」に耽る「不特定多数のうちの一人」が描かれる。
しんどい状況にあって、ものを考えようとする者がつねに矮小に取り憑かれてしまうナルシシズム。 ▼「当事者ナルシシズム」と呼ぶべきものを単に否定するのではなくて、冷静に観察と分析の対象にする必要がある。 【このことは、論者一般に対して考え得るはず。】
ナルシシズムは、メタ的・社会的な考察がすごく難しい。 でも、政治や経営の統治スキームにとって、無視できない要素のはず。*2
フロイト「ナルシシズム入門」
『フロイト著作集 5 性欲論・症例研究』から少し引用。
誇大妄想はおそらく対象リビドーの犠牲によって生じてきたものである。 外界から撤収されたリビドーは自我に供給されたのであり、こうしてわれわれがナルシシズムとよぶことのできる一つの態度が生じてきたのである。
激しいエゴイズムというものは罹患を防ぎはするが、しかしついには病気にならないために相手を愛しはじめねばならず、また拒絶されて愛することができなければ、病気にならざるをえない。 たとえば H・ハイネ(H. Heine) が世界創造の心理過程を想像して歌っている次のような範例にしたがって――
病こそはたぶん、創造のあらゆる
衝動の究極の根拠であった。
創作しつつ私は治癒することができたし、
創作しつつ私は健康になった。
われわれは、われわれの心的装置のなかにはとりわけある一つの能力があって、もしそれがなければ苦痛に感じられたり、病原的な作用をいとなんだりするであろうようないくつかの興奮を処理する任務がこれにあたえられている、ということを知っている。
「症状を生きる」こと。
「治す」のではなくて。