和歌山県田辺市――先駆的モデルケース?

17日が斎藤環氏の講演、夜に打ち上げ的な食事会。 18日は自助会と親の会にゲストとして参加。 両日とも、自分の原点を見つめなおすような時間(特に18日)。 ▼相談窓口担当の目良宣子氏をはじめ、「ひきこもり検討委員会*1の皆さんの雰囲気が非常に印象的。 田辺市の市長斎藤環氏の講演を最後まで聞かれていたが、これも珍しいのではないか。 ▼ひきこもり支援の政策的側面に興味のある方にとって、田辺市は必須の研究対象ではないだろうか。



*1:検討委員会」であって「対策委員会」ではないところに注意。

斎藤環氏の講演より(情報ピックアップ)

私のメモに基づくもので、もちろん発言者校閲はないし、文脈によって意味も変わってしまうので注意。【黒太字の「カギ括弧内」が斎藤氏の発言】

  • 斎藤氏がブリーフ・セラピー(短期療法)*1を紹介していたのは意外。
  • 「ひきこもりは、家族対応が50%以上。本人が動き出したらあとは方向付けはしない」
    • ひとまずこのように言うしかない。▼当事者本人としては、自由な倫理的選択の環境整備をされてしまうわけで、かえって厳しくもあるはず。
  • 「放置や放任につながるので、《わかったつもりになる》のはまずい」
    • 三脇康生氏はガタリ斎藤環氏はラカンを理論的参照項にしており立場が違うはずだが、お二人とも《分析の継続》を重視する方向であり、「無限の愛による全面受容」とか「永遠に待つだけ」とかの姿勢とは一線を画している。▼「無限の愛」とか「永遠に待てばいい」とかいうのは、そのアドバイスをしている者自身のイデオロギー的自己温存に過ぎない。もし事態が悪くなっても、自分は「無条件の正しさ」の中に鎮座し、すべての責任を親などに押し付けることができる。要するにアドバイザー本人のための「アリバイ作り」だ。▼ややこしいのは、そういう提言にすら意味のある局面があることだが・・・。
  • 家族によるコミュニケーション回復のための提案として、「《挨拶・誘いかけ》、《お願い事》、《相談事》」
    • 当事者は、見下すべき存在ではなく、「親が相談事を持ちかける相手である」ということ。
  • 「当事者による親への感情は、《恨み半分、感謝半分》」
    • ここは補足が必要だと思う。▼親に感じてしまった「感謝の念」は、100%そのまま「罪悪感」に転化してしまうのだが、これが非常に支えにくい。親に感謝を感じても、自分が元気に社会生活を送っていれば「給料でプレゼントを買う」などの行動が起こせるが、ひきこもっている現状では、まったく何もできない。→ 完全な無力の中での感謝の念は、自動的に罪悪感になる。 そこで親の顔が見れなくなるのだが、それは親からすれば「無視された」となる。




*1:(1)今、うまくいってる時は何もしない。 (2)かつてうまくいったことがあれば、またそれをしてみる。 (3)今、うまくいってなければ、やめてみる。

「就労しない自由」

講演の質問時間に、学校教員になることを志望している学生から、「ニート増加などが言われているが、教師としてどうすればよいか」という趣旨の質問があった。それへの斎藤環氏の返答。(大意)

 「人間は就労しない自由もある」ことを、教育現場で伝える必要がある。

さらに続けて、「就労しないで生き延びる方法を考える」云々。
次のような実例が紹介された。

 ある家庭では、ひきこもっている子供にマンションを買い与え、「毎年100万円×30年間」の提供を親が約束した。

経済事情も違うし、契約の細部はもちろん各家庭で違って当然だが、これが親子間での《交渉》の実践であることに注目したい。▼実際にこんな金額を提供できる家庭ばかりではないわけだが*1、宿泊型の支援団体を利用すれば、(たとえばある団体では)年間300万円かかるから、あり得る選択肢の一つとしてはじゅうぶん検討可能だと思う。▼現実問題として、「一生働けない」という人は多いはずだ。



*1:貧しい家も多い

核心部分――《自発性》と《交渉》

《自発性》をめぐる攻防に、教育・医療・労働などの、すべての掛け金があると思う。これは、はっきり政治的な問題だ。 自発性をめぐる意見のあり方に、その者の思想が端的に表れる。 ▼ひきこもり周辺で交わされている議論は、歴史的にはどのような位置づけになるのだろう。