問いの焦点

  • ひきこもりについて「安楽死(尊厳死)」を口にすることが、一つの「絶望」の表現だとして、それは「支援を考える人間」としての絶望であるとともに、「一当事者」としての絶望だった。
    • 僕自身が、「生に向けてのチャレンジ」を断念し始めていた。 つまり、安楽死したがっていたのは、誰よりもまず僕自身。
    • 僕の個人的問題でしかないならば、ブログに書き付ける意義はない。 しかし、「死にたい奴は黙って首を吊れ」は、「負け組は文句を言わず死ね」でもある。 「身体的に不可避な死」が目前に迫っていない人間にも「死ぬしかない」という決意があり得るとすれば、その決意自体が社会的に問題にされ、議論されることで、改善すべき構造的な矛盾が見えてきたり、「死ぬ必要はない」ことに気付くチャンスもあるのではないか。
    • 当然だが、公的に承認された「安楽死」が選択肢として用意されても、「黙って首を吊る」ことはできる。


  • 判例にもあるとおり、「末期の癌患者」に対してさえ妥当性が危ぶまれる現状では、「ひきこもりのための安楽死」は、お題目自体としてはほぼ戯れ言にすぎない。
    • ひきこもりの限界的な状況*1は激痛に満ちており、かつ「もはや打つ手はない」と思えるほどに絶望的 ――言葉を尽くしてそれを説明しても、ほとんど伝わらない。 しかし「安楽死」を話題にすれば、「激痛を伴う」「絶望的」といった問題設定はすぐに伝わる。
    • 僕という存在を自分のウサ晴らしに利用する人は、僕の発言のディテールなどどうでもよく、妄想的な揚げ足とりで騒ぎたいだけ。 読者の大半は良心的なのだから、僕も「1人の罵倒」を妄想的に全面化してはならない。 → 「良心的な対話的批判」と、「悪意ある独善的侮辱」を見分ける難しさ。


  • 「ひきこもりはそれ自体がトラウマになる」は、なかなか理解されない。 しかし「支援活動は、それ自体がトラウマになる」は、もっと理解されない。
    • ひきこもり支援は、人の家庭の最も致命的な局面、愛憎入り乱れる人の生き死にに関わること。 いいか悪いかはともかく、現状では命懸けの仕事。
    • あまりの激務に、支援者がどんどん倒れている。 「支援などするな、ひきこもりなど見捨てろ」という社会からの糾弾もある。 → 「当事者を守る」必要とともに、「支援者を守る」必要がある。 → ミッション・プログラム(線引き)の明確化が喫緊の課題。


  • 「癌患者が自殺した」といえば、そのいきさつや苦痛は社会の誰にとっても他人事ではない。 → 「安楽死」というテーマを通じ、絶望的な状況への処遇が公的に議論される意義がある、とされる。
    • ひきこもりは、「一部の脱落者」の問題であって、自殺者が出ようが、支援に絶望しようが、社会の圧倒的大多数にとっては「他人事」。 → どんなに絶望的で苦痛があろうとも、その処遇をわざわざ公的に議論する必要はない(「安楽死」も当然必要ない)とされる。 「見捨てておけ」と。
    • → むしろ真の問題は、「脱落者の自殺は、公的に問題視されるべきなのか」だと言える。 「そこに生じている苦痛や絶望は、社会的処遇の対象たるべきなのか」。 「安楽死」は、議論のテーブル設定としては役に立つ。



まだ議論としてはぜんぜん満足していないのですが、論点は変形してきたかな…。*2



*1:ネットを楽しんでいたり、知人との交流を持てるなら「限界的」ではないです。 でも、「ネットはできるが仕事は無理」なら、死はやはり身近。 「金の切れ目が人生の切れ目」なのですから。

*2:27日に長文のメールくださったかた、ありがとうございます。 とても救われました。 今日のエントリーも、ご期待には添えていないと思いますが…。

「精度を増していく」 → 「楽しむ」

『TOP RUNNER』で、大平貴之というプラネタリウム技術者のロング・トークを拝見する。 工学的探求がアーティスティックであり得る、つまり「精度を高めていく」という側面が自分や他人にとってエンターテインメントであり得る、というのが新鮮だった。