「複数性」の単なる指摘から、その都度のやり直しへ

東浩紀氏について、田口卓臣氏のツイートより:

 処女作で取り組もうとしていた「複数の超越論性」はとても重要だと僕は思っていて、この論点はまさにあの著作以降、スッと後景にしりぞいてしまいました。形式主義的に論じてしまうと、まさにニヒリズムに陥る危険性があるテーマだと思うのですが、それだけに具体的なテクスト読解を通して突き当たるべき問題でもある、と感じています。



「超越論性は複数である」という指摘は、
条件を説明する声として、みずからの単一性・絶対性を主張する。*1


複数性を静止画像のように言うだけでは、時間的に収拾がつかなくなる猥雑さへの対処は、語られていない。(論者はどうやって対処しているのか)

自覚されない制度順応や主観性の技法が、いつの間にか生きられる――ここを語り直さないといけない。 ここでこそ、不当な超越がこっそり導入されている。(改編不能の居直りや矛盾があって、説得できない)


単にメタに語っているのに、「自分なりに複数性を生きてるだけだからw」など。「各人は、各人なりにバラバラな超越を生きればいいんだ」と言うだけでは、その語りは、俯瞰目線を手に入れたままになる*2。 「複数の超越論性」を言うだけなら、その語りはメタなポジション取りであり得る。



「そのつどの超越」と、条件づけの整備

単なる猥雑さ(という固着)から、どうその都度の理解を、
そして合意形成をつくり出すか。


私は、単独的な条件に直面し、たびたび理解を生成し直すしかない。俯瞰を語る瞬間も含みつつ、つねに具体的な分析に引き戻される。そういう分析が生じてしまう。


単数だろうが複数だろうが、超越論性(生の条件づけ)をめぐる議論を、「出来合い」で済ますわけにはいかない。そのつど生成する超越*3を尊重し、そのために条件を整備する――そこで技法や、責任が問われる。


うまく生成しないなら、それを課題にせざるを得ない。単に複数性を言うだけでは、この破綻を主題にできない。論者じしんが俯瞰目線の生産をする*4だけでは、《超越の生きられなさ》が具体的に問われるわけではない*5。 《今この場でどうしていいか分からない》が、主題としてなかったことにされてしまう。


複数性をスタティックに語ると、議論そのものが生産様式として固定される。ここでは、「そのメタ・フレームそのもの」を分析する生成は、抑圧される。


どんなにルーズな語りも、一定のメタ・フレームに加担している。この生きられたメタをそのつど分析しなおす必要があるので、たんに複数性を指摘して終わればよいのではない。



ひきこもりに関連して

複数性をいうだけなら、以下の致命的課題に対処できない。*6

(1)交渉テーブルの不在
(2)意識そのものの萎縮

いずれについても、
あらかじめ決められた超越を用意したり、あるいは「複数だから何でもいい」に終わらせるのではなくて、その都度やり直すような着眼や、それに即した技法が要る。

    • 「超越はその都度やり直すしかない」という、この語り自身も、たんにメタでしかないので、私はそこに留まるわけには行かない。




*1:「複数の超越論性」について、以前エントリしたもの http://bit.ly/14Ti01g

*2:だから、複数の超越論性と言っておきながら、「そんなの常識でしょう」「人間ってそんなもんです」が言えてしまう。

*3:超越が経験世界を「超えている」なら、時間という現世的形式を取るわけがないので、「生成する超越」という表現は、矛盾している(参照)。▼また、条件を「永遠に変わらない何か」とするカント的な議論は、その都度のやり直しをうまく論じられない。

*4:そういう仕方でメタを生きる

*5:ひたすら詳細に記述する、記述そのものを自己目的化したような努力も、それは「具体的従事」に見えて、照準はメタに固定されている。時間の生きた改編はない(参照)。

*6:先日のイベントでは、あまり扱えなかった。今後はむしろ、この2点に照準しながら考えたい。