説明原理や、問題意識そのもののマイノリティ性

酒井泰斗氏から、私にいただいたレスポンスです(ありがとうございます)。
以下は今の時点でのお返事、というか、とりあえずの整理です。



モチーフの基調音として

それまで価値観を共有していると思っていた周囲の人たちまで、
実際に生じたことについての、古臭い解釈に居直ることがあります。
「権威ある誰か」の言い分は、そこでダメ押しみたいに抑圧する(参照)。

 「これ、おかしいですよね」 「いや、問題じゃないな」

→ 問題意識を分節することそのものが、どうしようもなく孤立する。逆境にある。

 あなたには、なぜそれが「問題」だと分かるんですか?
 あなたが考えを変えればいいのではありませんか?

→ 新しく説明原理から作り直すしかない。
そしてそれは、既存の解釈格子に捨てられる。

「そんなものは、説明でもないし、問題でもない」と言われ続ける。


「個別に問題に対応する」だけでは、この背景的な間違いは、正されることがない。


説明原理じたいがマイノリティの側は、膨大な説明をして、それでもほとんど理解はしてもらえないのに、「科学」などの説明原理だけでよい人は、わずかな説明でもう「説明した」ことになる。――そういうジレンマがあります。*1



大前提として

精神医学の診断カテゴリは、身体医学のそれと同等に扱うことはできません。精神医学は、学問的対象化のスタイルそのものから問い直されていますし、診断のカテゴリには、物質レベルでチェックできるマーカーがありません(参照)。
端的にいうと、あいまいな「臨床単位(clinical entity)」として運用される概念を、因果のはっきりした「疾患単位(disease entity)」と、同じに扱うことはできません。*2


発達障碍は、「器質因だろう」と想定されている(つまり、因果がはっきりしている前提にある)のに、どこにどういう問題があるかは特定されていない、という奇妙な状態にあります。
「発達障碍の診断を受けた」という場合、これは定義上、「先天的に脳髄の物質的異常を抱えている」という意味ですが、その異常については調べようがないので、

  • ほかの疾患や障碍なのに、誤診しているのではないか?*3
  • 先天異常に見えるが、文化的・社会的にそのように見えているだけではないか?

といった疑いが、残り得るわけです。


私は発達障碍に関して、器質的トラブルの可能性は否定しない前提で、*4

 意識そのものが同じパターンを反復してしまう、そういう形で硬直してしまう

という状態について、簡単に「診断カテゴリ」を前提にすることができません。
むしろ、そのようなカテゴリを前提に論じることそのものがもたらす硬直を問題にしたい。私が発達障碍について、《論じかた》に最大限の注意を払おうとするのは、そういう理由です。


意識に硬直があるなら、動きとして、動きのなかで論じたい。
そして論じる自分は、生きた時間を抜け出すことができません。
誰かを固定的に、イデアの世界に描き出して居直るような、メタ言説に順応したことを誇示するような主張(正しい主張には、政治などあり得ないとされる)は、生身の時間には許されていません。


私は、「診断名に還元して終わり」という処理を認めていません。作業仮説でしかない診断名に、「診断名で処理されるべきだ」という独断を乗っけても、具体的な対処を生きることにはならない。書類上の処理(名詞形による分類)と、具体的な処方箋は、別の議論をするべきです。
そもそも今は、発達障碍と診断されかねない硬直を、多くの人が生きています。その硬直をテーマにするのは、「診断」して悦に入るのとは別のことです。



概念や論じ方も、やり直しの作業に巻き込む

苦痛のある状態を改善しようとして、議論を始めますよね。
そこで最初に与えられた概念は、絶対的なものではありません。無資格者だって、その前提から問い直すことができるし、むしろそういう問い直しこそが必要なのです。

たとえば外科的な身体医学なら、「物質機序を明らかにする」という基本的な方針については、文句のつけようがないでしょう。しかし精神科では、「どういう発想でアプローチするか」から、問い直しをせざるを得ません。*5


私がこだわっているのは、そういう問い直しの権利と必要性です。
そして「論じかた」は、直接の臨床課題になっている。
状態像の硬直に関して、あまりに大きな影響を持つので。
間違った論じ方をすることで、論じる本人が固まってしまう。


たとえば、

 「科学的に」「ロジカルに」

というアリバイだけに居直るような論じ方はできません。
この前提だけに頼ろうとすると、診断名の名詞形は温存されるし、丁寧にやろうとすればするほど、抑圧はひどくなります。既存の方針が強化され反復されるだけなので。私は、それでは扱えない事情を何とか扱おうとしているわけです。


科学や論理は、動きを作り出すためのきわめて重要な要因ですが、
それ「だけ」というわけにはいきません。*6


酒井さんからは、「分析すればいい」と励ましていただいたのですが(参照*7、そこではいつの間にか、《分析》という言葉で名指される作業のスタイルは、決められていないでしょうか。私が自分の前提に基づいて《分析》しても、その作業は、酒井さんからは「それは分析ではない」と言われる可能性がないでしょうか。

現に今回も、私が必要とする問題意識について、酒井さんは「そんな大雑把な話には乗れない」とのことでした(参照)。しかし私からすると、私のような問いを無視する議論こそが、大雑把すぎるのです。



マスキングや阻害の中身

焦点は、ここです:

私も酒井さんも、マスキングや阻害がまずい、と言っています。
ですのであとは、「より抑圧の少ないあり方」について、
それぞれが整理し直すべきなのでしょう。――とりわけ、
「マスキングや阻害」の理解について、マイノリティ性を抱える私のほうが。



作業過程の硬直をもたらすもの

意識や関係をマネジメントするときに、

 診断カテゴリによる処理という手続きの方針

だけは、温存されがちです。便利なので。
医師が議論をやり直すにも、「カテゴリで処理する」という
言説方針そのものは、変わりませんでしょう。


つまりここでは、「マスキングや阻害」に関して、

 議論の方針がどう設計されているか、その人がどういう方針に従っているか

を問うています。


それを問わずに議論をやり直しても、努力の方針は、同じパターンを繰り返す。
問いと答えのカップリング自体が、ウソの土台の上に乗っている。


議論の方針を変えたいという話をしているので、

 あなたは医師ではないから許されない

というのでは、論点が違いますね。
医師免許があっても、議論の方針は間違っていることがあり得ます。
というか私は、専門的とされる議論の前提を、やり直そうとしています。*8


名詞形の診断カテゴリも、絶対的でメタ的な準拠点ではなくて、

 前提を問い直すことによって、自分で組み直すことができるかもしれないような、作業過程の部品

のような扱いになります。
カテゴリを問い直すことを前提にできれば、「○○的」という表現も、位置づけ直せる。つまり私は、誰かに向けて最終的な診断フレームを突きつけているのではなくて、概念や環境の事情そのものが、組み直し得る素材のレベルにある。その前提で論じています。


酒井さんとは、この前提を共有していないと感じています。つまり酒井さんは、硬直する意識そのものを、《作業過程の硬直》とは、捉えておられない。そこで私が診断カテゴリを持ち出せば、「不当な診断ごっこをしている」という話になるのは、当然です。



次のような対比がないでしょうか。

  • 酒井さんは、診断カテゴリを名詞形で尊重し、しかもこれを医師だけが運用するのでなければ、阻害とマスキングは強まると考えている。
  • 上山は、即物的な記号として投入された診断カテゴリも、動きのなかに置き直し、論じ直さなければならない。診断カテゴリも論じる自分も、止めることのできないナマの時間を生きるゆえに。阻害≒疎外は、《必然性をもった動きをせき止めるもの》にある。 硬直した名詞形による処理は、その一つ。




名詞形という、便宜的なもの

たとえば引きこもりが典型的ですが、苦しさに名前がなかった人たちは、

 こんなにおかしな状態になっているのは、自分だけだ

と思いがちです。→ 名前を与えられて共有されることで、ひとまず安心。


ところが今度は、そのカテゴリが自分を縛り始める。*9
便宜上の説明概念だったはずが、こちらの人生を丸ごと飲み込む概念枠になる。
私の活動はそこから一歩も出られないし、自分でもそういう思考を始めてしまう。


「医師以外は、診断名について論じるな」というのであれば、

 名詞形に基づいた医師たちの概念操作には、
 誰がどういう手続きで、問題提起をするのでしょうか?

私は医師でもアカデミシャンでもありませんが、概念操作について、
自分で疑念をもち、自前の工夫をしてもよいはずです。
これは書類上の手続きとは別の、技法レベルの試行錯誤です。


たとえば「人格障害」は、医師たちの使う用語だったのですが(いちおうまだ現役)、これは新しい診断マニュアルの編纂チームによって、概念枠そのものがデタラメだったことが曝露されています(参照)。 この概念枠が奇妙であることは、医師免許のない人たちにも以前から指摘されていましたが、私たちは、「正式発表」を待つしかなかったのでしょうか?


たとえば次のような発言は、日常的ですらありました。

 この状況だと、おれは「人格障害」と見られちゃうね

これは問い直しであって、概念枠を信じているわけではありません。
むしろ皮肉であり、批評的な言い回しです。


いっぽうで、まさに酒井さんのおっしゃるような、「不当な診断ごっこ」を私に向けて悦に入る人にも出会いましたが*10、それとは作業の趣旨が違うはずです。



問題意識の「前提」から弁護しなければならない

(青)と、酒井さん(人物絵)のやり取りより:



「どんな機会に どんな手段でもって把握することができたんでしょうか」というのは、本来は誰に対しても突きつけられた問いのはずです。そこで、問題意識そのものにマイノリティ性を抱えざるを得ない側は、既存の解釈枠に頼れないので、「問題意識のフォーマット」の弁護から、始めなければならない。圧倒的に不利な状態にあるのです。


個別論点を扱うだけでは「なかったこと」にされるので、わかりやすい説明原理に基づくわけには行かない。自明とされる説明原理がなきものにしたものをこそ扱おうとしているのですから。自分の抱えている怒りについて、物質機序を突き止めるような、自明の説明フレームには乗っかれない。


いわば《怒り》そのものが、芸術家の出品のようなポジションに置かれるのです。「これは何をやっているか分からない」と言われ続けるが、わかりやすさ「だけ」を追求すると怒りそのものが潰されてしまうし、かといって、既存の解釈の文脈(常識的にいってどのように受け取られるか)は、無視できない。誰にも理解されないかもしれないが、自分の怒りが本物だというなら、それは「伝わらないかもしれない、でも必然性がある」ということを、自分で解説し、批評しながら、プレゼンテーションするしかない。


問題意識の適切さは、論理学にも還元できません。
論理だけに頼ろうとするのは、それ自体が独りよがり。
また、たんに詩的に耽溺すればよいのでもない。


ひとまず、

 問い直しの要請は、身体から切り離すことはできない

くらいは言えますが、それが独善にならない保証はありません。
どのタイミングで、どんな問い直しをすればよいのか。
またその介入は、どのように適切であり得るのか
――これは、私じしんの技法の問いでもあります。



ただでさえ言語化しにくいことについては、既存の解釈格子や方法意識に還元できなければそこには正当な問題はあり得ないと考えること自体が、激しい抑圧です。

私たちの日常では、多数派のスタイルを反復する誰かが、
必然性をもって生じた疑念をなかったことにして、どんどん進んでいきます。


ですので、いきなり個別的な説明をするのではなくて、

 説明や弁護のために必要な前提それ自体がマイノリティである

という、このモチーフを根付かせるところから、
始める必要がありそうです。



*1:そうなると、かろうじて分節した話を詳細に理解くださる方は、(すくなくとも初期段階では)少数派にならざるを得ない。ものすごくピンポイントでしか、出会えないかもしれない。だから、こちらの説明をやり直してもらえたようにすら感じる瞬間は、本当にうれしいのです。

*2:精神医学で因果がはっきりしているのは、器質性の精神障害のみです(参照)。

*3:診断枠として、統合失調症/発達障碍/普通精神病 の3つは、絡み合っています。

*4:そもそも脳髄という臓器について、「プロトタイプ」はどこまで前提できるのでしょう。誰の脳髄でも、なんらかの物質的偏りは持つのでは。

*5:それが専門性への、不信感の理由にもなっています。ここで専門性とは、薬へのアクセス権でしかなくなる。多くの患者さんにとって精神科医は、「向精神薬自動販売機」みたいな機能しか持ちません。医師の自意識やディシプリンも、「薬を手に入れるためのファクターのひとつ」でしかない。

*6:「科学や論理への還元ではないような批判とは、そもそも何か」について、社会的に位置づける必要が生じていると思います。私はひとまず、「名詞形への還元をやめてくれ」と申し上げています。

*7:皮肉ではなくて、言葉通りに受け止めています。もちろん感謝しています。

*8:資格や所属ではなく、作業のスタイルそのものを論じようとすること。私はこれを、「生産様式」というモチーフで扱っています(今回はとても扱えませんし、細部は課題のままですが)。 私たちの意識そのものを、唯物論的な「生産過程」として論じよう、という試みです。直接 参照しているのは、フェリックス・グァタリです。 「主観性の生産」は、グァタリの基本的なテーマですらあります(参照)。

*9:名詞形の「当事者」という枠組みも同様。

*10:そのうちの一人が、私の協力した社会学者でした。