東浩紀

* 闘技民主主義/熟慮民主主義/データベース民主主義の区別でいこうかしら。ぼくがいいたいのは「直接」民主主義というより「データベース」民主主義なんだよね。

* 冗談ではなく、ぼくはこの文章にすごい大きな影響を受けて思想・批評活動を行ってきた。あちこちで何度も言及してきたのだが、Twitter時代になり嬉しい。 RT @tokada: 小松左京『神への長い道』 http://tokada.tumblr.com/post/119916661

* 東浩紀の考える民主主義2.0の要は、ネットでも直接性でも中立的な技術の導入でもなく、代表制の変換です。ディレクトリ型の社会からタグ型の社会への変動を受けて、いかに代表=媒介のシステムを変革するか、それが問われている。
* ひとりの個人がひとつの(少数の)集団に属し、それら集団の意見を集約することで個人の意見が拾いあげられるというシステムそのものが、現代社会にそぐわない。その変革は、政治とはなにかとか代表とはなにかみたいな神学論争に行かなくても地味にできるんじゃないかと思うけど。

* 人格的で包括的な承認(ぼくを認めて!)は勝手にリアルで「個人的」に調達する、「社会的」なコミュニケーションは断片のやりとりで済ませる。 これがぼくの理想像というか、現実にもそうだと思うので、Twitter はコミュニケーションのツールとしてたいへん完成度が高い。
* 140字という制限が、包括的な承認の夢をいっさい断念させるのだ。
* ブログだって、もともとそういうものだったはずなのに、なぜか日本では承認ツールと化してしまった。

* ホッブズの契約は個人と政府の契約(リヴァイアサン18章)。 ルソーの社会契約は個人同士の契約(社会契約論第1篇第6章)。 ただしルソーの契約は契約と同時に全体=主権を生成するので、個人と全体の契約のように「も」読める。そうするとルソーは全体主義ということになる。
* ルソーの社会契約論は「エミール」や「新エロイーズ」と並べて読むべきものであり、その背後にはさらに「告白」がある。いまはまだ無理だけど、その意味で一般意志2.0の話は本当は、文学2.0というか内面2.0みたいな話とセットでないと意味ないのです

* 肯定も否定も区別しなかったことがGoogleの良かったところ。精神分析ではpro/conは意識のレベルでしか区別できない。 RT(ReTweet)もそれに使える可能性がある。これは投票の概念を変えている。

* 今日ぶつぶつと呟いていたやつのフランス語原文。
*, * Si, quand le peuple suffisamment informé délibère, les citoyens n'avaient aucune communication entre eux, du grand nombre de petites différences résulterait toujours la volonté générale.
* 英語で対応して言えば、ここでルソーははっきりと、十分に informed された people が communication なしに deliberate すると、小さな difference が集まって一般意志が生成すると述べている。(『社会契約論』第2編第3章)
* ぼくの一般意志2.0論のエッセンスはすべてこの一文に含まれている。差異、情報、コミュニケーション、熟慮(deliberate)という単語がここまで集約されている文章が、2世紀半前に書かれていたことそのものが驚きではなかろうか。

* というか、ぼくの観点からすると(思想史的に異端かもしれないけど)、この一節の爆発的な力強さにいままでだれも気付いていなかった(ぼくの調べたかぎりでは)ことそのものが、驚きなのだ。いやマジで。この一文はすごいって。
* ところで、ぼくは古典を「読み替えて」いるので、「東の言ってることって通説と違うよね?」的な反論は意味がない、と言っておきます。これは開き直りではありません。突っ込むなら原典読んで反論しろ、というガチの話。
* だいたいそもそも「一般意志は誤ることがあるか」というタイトルがアツいと思うんだよね。ルソーの考えでは、むろん一般意志は定義上誤らない。でもそれってなんなの、と。w

* ちょっとマジに言えば、communication という言葉はキリスト教的含意があるし政治思想的にも重要。 communion、community、communism... 20世紀後半には communitarianism. だからルソーがここで commu- を廃したのはアツい。
* ぼくの構想では、アレントの公共性論(「人間の条件」)とルソーの一般意志はかなり違うという話になります。
* ルソーが全体主義者として批判されていることは100%承知のうえで、それをひっくり返そうというのがぼくの企図です。というか、ぼくもカッシーラーとか普通に読んでいるので、その点は信頼してほしいw
* というかぼくが言いたいのは、ルソーって普通にひきこもり系のやつで(これは思想史的常識)、そいつが社会契約とか考えたことの意味って、ネット的にアツくね?って話だからね。
* とりあえずぼくの一般意志2.0論は、そのものずばり「一般意志2.0」という一般向け啓蒙的連載を講談社の広報誌「本」で普通にやっていて(参照)、それは2010年秋までには本になる予定です。

    • eto: ルソーの一般意思は、カントの物自体と同じようなことを意味するんじゃないか。

* それこそが思想史的に標準的な解釈です。そして日本的には柄谷はそういうこと言うはずです。しかしぼくは、それは「物自体」とかではなく、純粋にモノ、というかデータでよくね?と言いたいわけです。
* そういえば、社会契約論と同年のルソーの代表作「エミール」に、一般意志は人の秩序でなく物の秩序なのだ、というアツい註釈があります。あれも神。だって、人の意志が物だってんだよ??
* 集団の意志が、それも小さな意志たちが集まって「物の秩序」を作る、というルソーの発想は、いまこそ真剣に検討されるべきではないか。

    • kafu_f: 「物の秩序」とはフーコーの文脈にも通じるのでしょうか?

* おっと、そっちは考えてなかった。そりゃ関係ありそうだ。というかあるでしょう。検討します。指摘ありがとうです。

* ドゥルーズってどこかでルソーの社会契約論に言及していたっけ? 単純に質問。

* リヴァイアサン18章で書かれているのは、「各人相互の契約」によって、すべての人間が「一個人」あるいは「合議体」にすべての原理を委ねる、つまり主権を与えるということなので、結局は市民と政府のあいだの契約なのです。ルソーはその点違う。
* ぼくの議論で重要なのは、ホッブズには革命権がないがルソーには革命権がある、なぜならホッブズでは王が主権者だけどルソーでは主権は一般意志として別だから、つまり政府と主権が別である、ということです。
* ちなみにルソーは「反転したホッブズ」と言われることもあるぐらいで、理論構成はかなり似ています。しかし、ホッブズにおいては主権は王に完全に委ねられる、というか王という実体として捉えられているのに対し、ルソーはそこがちがう。
* 講演では(連載原稿でも)それをシンプルに、ホッブズでは市民は王と契約し権利を委ねるが、ルソーでは市民同士の契約で主権が立ち上がりそれと王は別だ、と説明しているわけです。

* じつはぼくはいま最大のミッションは、政府の政府2.0化では「なく」て、政府の外側に、一般意志を可視化し執行する別のシステムをのうのうと作ってしまうことだと考えている
* 現代の代議制民主主義が、国会決議とかで自ら代議制を止めることができるか(あるいは国会議員を10000人とかにできるか)と言ったら、絶対にできないそうにない。王政自らが王政を廃止できないのにそれは似ている。鈴木健の提案だって、代議制の根幹に触れるから通らないだろう。
* とすれば、結局、もうひとつ、よりよく一般意志を反映した政府を作るほかないのだ。
* と書いていて、これはつまりは革命ではないかと気がつく。ヤバい!w

    • 楠正憲*1 Yahoo!楽天の動きはその嚆矢だし、Googleが宣言したリアルタイム検索の方向性も、一般意思のサマライズに向かうんじゃないかなあ

* そう思っています。昨日も言ったけど、Googleが作ろうとしているのは、世界政府というより「世界主権」です。

* 一般意志と民主主義はまったく別概念です。ぼくの連載が「民主主義2.0」ではなく「一般意志2.0」と題されているように、ぼくは集合知が民主主義だとは述べて「いません」。「ルソーの一般意志の概念を集合知として読み替えると、新しい民主主義の基礎付けになる」と述べています。
* たとえば、一般意志2.0と熟慮民主主義を組み合わせることはぜんぜん可能。一般意志2.0は主権の問題、熟慮民主主義は統治形態の問題。比喩的に言えばグーグルがあってもSNSがなくならないのと同じ。――とまあ、そんな感じです。




濱野智史 (プロフィール)

* 帰宅早々に東さんの熱い復習 tweet が連投あったのでRT(ReTweet)。 補足で僕は『社会契約論』の該当部分の日本語訳を tweet しようと思う。ソースは白水社作田啓一/原好男訳の『社会契約論;人間不平等起源論 (イデー選書)』p.36-37. 一般的に入手しやすい岩波文庫版とは違うので注意。

* 「人民が十分な情報をもって討議するとき、もし、市民相互があらかじめなんの打ち合わせもしていなければ、[一般意志との]わずかな差が多く集まって、その結果つねに一般意志が生み出されるから、その結果は常によいものであろう。」(作田啓一訳『社会契約論』白水社版)

    • 東浩紀の返答: 濱野くんのツイットに原典的に言うと、「その結果は……」の部分は仏語では et la délibération serait toujours bonne. つまり「その熟慮は……」という文章でまたキーワードが繰り返されている。

* いま引用した次の文は、有名な中間集団の否定に相当
「ところが、部分的結社である徒党が、大結社[=政治体]を犠牲にしてつくられると、これらの部分的結社のおのおのの意志は、その構成員に対しては一般的であるが、国家に対しては特殊的となる。」
* つまりルソーからは、今日僕が提案したキャラクラシー、すなわちキャラクターを仮想の政治家=政党=部分的結社(アソシエーション)とみなす僕の立場はがぜん批判されているのだった・・。というかルソーの発想だと初音ミクで結束できる単位で国家つくれや、ということなのかも・・
* ルソーがいうには一般意志を「階層化」ないしは「カプセル化」することが誤りの一歩、と読めますね。

* 引き続き「社会契約論」の同じ箇所から引用:
「それゆえ、一般意志が十分に表明されるためには、国家の中に部分社会が存在せず、おのおのの市民が自分だけに従って意見を述べることが必要である。」 つまりは、「空気読まなければ一般意志になるお」、ってこと。
* 余談だけどこの点から「ネットワークから切断する権利」をあらためて再考してみてもいいのかもしれない。プライバシーなり云々というより、空気(あるいは「沈黙の螺旋」なり「サイバーカスケード」)から降りる権利、としての。
* というかこの「ネットワークから切断する権利」「降りる自由」「存在の匿名性」は、東さんの「情報自由論」の主要な論点でしたよね。いまそのことを思い出してました。

*, * 『社会契約論;人間不平等起源論 (イデー選書)』p.36 「全体意志と一般意志とのあいだには、しばしばかなり相違がある。後者は共同の利益だけを考慮する。前者は私的な利益にかかわるものであり、特殊意志の総和にすぎない。しかし、これらの特殊意志から、[一般意志との距離である]過不足分を相殺させて引き去ると、差の総計が残るが、これが一般意志である。」
*, *, * いまさっき引用した部分の注釈も実は熱い。ちょっと長いけど引用する。
「ダルジャンソン候は言う、『各人の利益は、それぞれちがった原理を持っている。二つの特殊な利益の一致は、第三者の利益との対立によって形成される』と。彼はこう付け加えることができたであろう。すべての人の利益の一致は、各人の利益との対立によって形成される、と。かりに、相異なる利益がないとすれば、共同の利益はなんの障害にも出会わないから、人々は共同の利益にほとんど気づきもしないだろう。すべてはひとりでに進行し、政治は技術(アール)であることをやめるであろう。」  この最後の「技術」の部分を、僕はアーキテクチャと拡張して読み替えたい。差異から一般意志を引き出す技術。今日のウェブ学会風にいえばそれは「知の構造化」なり「集合知」になるはずなのだ。




千葉雅也 (参照)

* なるほど、ルソーの引用おもしろい。濱野さんが挙げた邦訳で「[一般意志との]わずかな差が多く集まって」とされているのは、différence という概念を、「〜との違い」という相対的差異としてとらえようとしているが、この原文は、それ自体として騒めく差異として理解されるべきでしょう。

*  communication なしでの déliberation(討議、熟考)。 ドゥルーズは、管理社会論のなかで、コミュニケーションは腐りきっているから、創造性は非コミュニケーションにしかないと言っていた。 そこには「非コミュニケーションによる共同性」というパラドクス的可能性がある。

      • 【※引用者による、本からの引用】: 「言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に浸食されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。」 (『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』 p.352、ネグリによるインタビュー)

* 濱野さんがつなげようとしている降りる自由の問題も、非コミュニケーションこそを根本とするという考えで処理できそう。コミュニケーションに籠絡されきった世界でなく、バラバラの差異から出発すれば、「すべてが初めから降りているのに共同している」とでも言うべき状況を(超越論的に)考えられる。
* 原理的な「降りている」ことが権利上 de jure 肯定されることで、事実上 de facto なんらかの中断や無関心を肯定することもできる。 ドゥルーズはバラバラの引きこもり的「小さな世界」が分立したまま(非)関係しあうと考える。 これは一般意志2.0のアイデアと共鳴する。
* ドゥルーズのルソー論はあまり明確ではないが、ルソーが考える初期状態は互いの「孤立」であり、それが社会的関係(つまりコミュニケーション)を結ぶと抑圧的隷属を生みだすので、そうした悪しき帰結を排するような共同性を考えるのだ、という感じになっている。

* ロビンソンがフライデーを隷属化することが例として挙げられるので、むしろ無人島に徹底して引きこもった上で、他者とのいわば「非関係的関係」が可能になるようにするべき、という(のちに『意味の論理学』所収のトゥルニエ論で示される)アイデアが伏在しているようにも思える。

    • これでは、ドゥルーズがなぜラボルド精神病院でのガタリの取り組みを評価したのかが分からない。以下で言われている「非コミュニケーション」と、臨床実践としての「制度分析」の違いが重要。
      • 【2010年10月17日の追記】: ここには、「コミュニケーションは腐ってるよな」「うん、そうだよな」という、ギャグのような自己矛盾がある。 東浩紀や千葉雅也は、「中間集団はいらない」という方針によって中間集団を生きている。 ⇒「中間集団の要らない社会を創るための道具的党派(消滅する媒介者)」はあり得るが、そこまでしても残ってしまうのが《中間集団=党派性》とも言える。 友好的なつながりが反復されるときには、すでに何らかの作法が生きられ、お互いが作法を押しつけ合っている。 ▼中間集団は、「なくそうと思えばなくせる」というより、いつの間にか生きられてしまう無意識のようなものではないか*1。 うまく行かない理由はそこにあるのだから、照準せざるを得ない。 中間集団のいらない社会を技術的・制度的に目指すと同時に、むしろ否応なく残ってしまう中間集団的要素をどうするのか、そのことへの処方箋(技法や制度的整備)が必要に思う。――これはコミュニティについて、「意識すればなくせる」でも、「意識的に大事にしなくちゃ」でもない。 「意識的にはなくす方向を目指したいが、努力したところで残ってしまう、だからそこに工夫と技法が要る」という立場。

* 「コミュニケーションではなくむしろ非コミュニケーションが必要なのだ」というドゥルーズの議論を、たとえばネット利用を止めるとか、孤独に山ごもりするとか、そういうふうに理解するべきではないと思う。僕の解釈では、非コミュニケーションとは、コミュニケーションに内在する亀裂である
* そのことを直感させてくれたのが、初期のチャットだと思う。夜ごと仮面と仮面のすれ違いに、どことなく感じる「宇宙的郷愁」。素朴なコミュニケーションの連鎖が、潜在的に、何千光年のディスタンスによってひび割れているような。そのひび割れにおいて触発される官能性……。

*, * 非コミュニケーションのある種のタイプとして、ブランショみたいに顔を出さないとか、ああいうダンディズムの倫理って、ホントにどうでもいいと思うね。「顔を出しながら顔を出さない」というファンタスティックな術(じゅつ)を身につけるほうがずっと魅力的だと思う。

*  僕が言いたかったのは、「亀裂を持ち込む」っていう自覚的・能動的なことではなくて、もっと受動的な、あらゆる関係のあいだに何千光年もがあるなあという感慨のことです。そのつどの自分と自分のあいだにも、そういう何千光年もがある……。

    • ttt_ceinture: なるほど。じゃあ、合意に流されないように、とか、自分の問題設定を貫く、とか、そういう狭義の批評的振る舞いとは別の話だったのかな。

* そうです、狭義の批評的振る舞いとは真逆です。切断力とでも言うような勇んだものを求めるのではなく、合意に流されてもいいし、だらしないままで、しかしいたるところに亀裂が入りまくっていることを受動する(ことに官能性を見出す)といういわば「弱度」です

    • ttt_ceinture: まあえてしてこういうのは、戦略的に構想して、先取りする、というのが全然効かないので、カンじみたノウハウ、術が要請されるわけで、千葉さんが小林ゼミで学んだ云々というのはこういうことだろうと思いましたけどね。

* 無数の亀裂を通して、もはや相手の立場でも自分の立場でもないものへと受動的に変わっていく変身の術(かわりみのじゅつ!)です。互いをヘーゲル的に総合するのでもなく、コントラストを脱臼させる多孔性の境界から噴射される変身の靄へ。「カン」じみたテクネーで。

* バートルビー(についてのドゥルーズの論)*2はきわめて魅力的です。 「せずにすめばありがたいのですが」という静かな拒否。だが、そのとき彼は、多様体へと生成変化して旅に出るのだとドゥルーズは言っています(それがアメリカ的な希望なのだと)。




*1:情報断片としての無意識ではなく、「関係者に自覚されないフレーム」としての無意識

*2:※引用者注:批評と臨床【文庫版:『批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)』】所収の「バートルビー、または決まり文句」のこと。

「フランス大使館シンポジウム観覧メモ: 千葉雅也、池田剛介、濱野智史、黒瀬陽平、による「イストワールの現在」」(FERMAT池田純一氏)

 フーコーが言った「人間の終わり」の時代をマジで受け取るために、ドゥルーズ=ガタリによる、新たな唯物論=機械論を突き詰めよう。 そのことを具体的に実感させてくれるモノとしてインターネットがある。 (略)
 要するに、「人間外し」。 人が集まって話し合おうという方法論に固執するから、政治も、社会の随所の意思決定もバグばかりになる。