以下、ネタばれを含む感想。
戦術上のまちがいと、愛に関するまちがい
勝つための戦術を間違うことと、「何を大切にすべきなのか」の優先順位を間違うことと。戦術は、優先順位を間違ったあとには全てくだらない。(死にゆく老人は、莫大な財を成したが後悔している。少年の父親は、息子を傷つけながら売り出しに成功している。)
全員等価で、どうでもいい
うまくいっているように見えるものが、いかにうまくいっていないか。 順応はアリバイでしかない。 嘘をついたつもりが本当になってしまう。 意識の思い通りにいかない。
何の特別さもなく、ただ無記名の肉塊としてそこにいる。有名であったり権勢があったりすることは何の差異でもなく、人間の個人がすべて等価。 神はおらず、投げ出されている。 シンクロニシティ(同時性)は、悪い冗談でしかない。
群像劇であり、「主人公」はいない。もと天才少年がバーで自慢するシーン。「稲妻に打たれたんだろ?」と訊くカウンターのおっさんは、ストーリーに関係のある登場人物と等価だ。たいていの映画では、「主人公」がいて「その他大勢」がいるが、この映画では出てくる一人ひとりがいちいち「どうでもいい」。どうでもいい人間しかこの世にはいないからこそ、愛の問題が切実なのだ。
特別でない存在が、「特別な」愛を持つことにどんな意味がある?(人や運命にもてあそばれ、後悔して消え去るのみ)。 誰かを本気で愛しても、それは苦痛を授かることでしかない(「愛しているから苦しい」と告白するドニー、愛さなければ夫の財産を手に入れてバンザイだったはずのリンダ)。 「特別な」愛なんて満たされないのに、「特別に」愛そうとする能力だけが装備されている屈辱(「はけ口がない」というドニー)。 弱さゆえに男根主義を連呼し、愛に直面することが崩壊をしか意味しないフランク。
すべてうまくいっていない傷口にすり込むようにカエルが降ってくる。(グロテスクで意味がわからないほど治癒効果がある)*1
始まってしまったものは、理解できないままでも止まらない。
最後の場面に涙したが、それがまた屈辱にも感じる。
エンディングロールの最後まで聞き入ってしまった。
「全員等価で、どうでもいい」追記
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- 肉体としては等価だが、全員が関係に巻き込まれていて、制度的なポジションと力関係がある。
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- 「どうでもいい」と思い切れない大切なものがある。しかし、取り返しのつかない時間や、現実の力関係のなかで、すっかり諦めかけている。
当事者ナルシシズムへの解毒として、自分を無記名に考える視点は一度確立すべきだ。