親密圏と正義

正義・家族・法の構造変換―リベラル・フェミニズムの再定位

正義・家族・法の構造変換―リベラル・フェミニズムの再定位

北田暁大氏の引用に興味を惹かれて入手し、少しずつ読み進めているのですが、ひきこもりの問題を考えるためには必読に思えます。
樋口明彦氏の「正義論にケアの視点を導入する」という論考でも触れられていたのに、かつては文脈が読めず、まったく気に留めていませんでした。
そもそも考えてみれば、ひきこもっている人の多くは、自分の経験についての「理不尽感」に苦しんでいることが多く*1、それもやはり《交渉》という政治的=法的レベルで考えるしかない。
家族自体が社会的に構成された制度であると考えれば、「家族内で扶養されている」というのは、その形において社会生活を営んでいるとも言える。 家族という親密圏が権利として法的に保護されるべきなら、家族がそこで誰を養っても公権力や第三者が介入するべきではない。
「家族から社会に出る」というのは、まるで「社会に出れば解決する」みたいな言い方ですが、社会に出るとは容赦のない交渉関係のバトルに巻き込まれることであり、逆に言えば、家族というのは温情と免除のついた特殊な交渉関係といえる。 家族と社会生活は、交渉関係というフィールドにおいて連続的に捉えたほうがいい
「家族 → 社会」というのは、「家族に扶養される異常な状態から、社会参加した正常な状態へ」ということではなく、「世界で唯一のハンディつき交渉関係」が、地続き的により過酷な交渉関係に移行してゆく、という話のはず。(けっきょく赤の他人との交渉関係に移行できない人も大量に居ておかしくないと想像できる。)
ずっと閉じこもり続けるには、経済的・価値観的に周囲の人を説得しなければならない。 社会的な生存は、何であれ交渉関係の結果として成立している(徹底した沈黙という戦術の結果まで含めて)。
ひきこもり状態の苦しさ(の一因)は、自他の追い詰めによる「24時間の針のムシロ状態」ゆえ。 だとすれば、自分の居る場所についての「契約の確保」が安心感につながり、その広がりにおいて、外部世界との関係に入ることがあるかもしれない。 ▼「社会と家族」というよりも、交渉関係の一元的広がりにおいて理解することが有益に思える。
「家族への契約アプローチ」(p.107)など、リベラリズム法哲学を参照することへの重大なヒント(きっかけ)になった。



*1:いじめられたこと、生まれてきたこと、親との関係など