《両義性》――腐敗と抵抗

女性ホームレスを扱った丸山里美氏の論考「数々の脱出(エクソダス)をつなぎあわせて」(『現代思想』2005年11月号p.206〜)より。(強調引用者)
軽い知的障害のある女性ホームレス、Aさん(36歳)。東京のとある公園で2人目の夫と暮らしている。そのつどの事情から、施設*1・ホテル・公園生活を行き来し、実家に帰ることもほのめかす。

このようなAさんの実践は、ヴィルノマルチチュードの存在様態について、両義的であると述べていることを想起させる。両義的であるがゆえに、「腐敗の基盤にも抵抗の基盤にも、つねに、偶発的な可能性への感受性がある*2」と。

ホームレスの抵抗の動きをすくいあげていこうとする人々が、その抵抗の可能性を信じようとするあまり、路上における実践ばかりに注目することになり、その結果Aさんのような両義的な生のあり方が見落とされてしまったのではないだろうか。Aさんのような腐敗と抵抗が偶発的なものとしてあるような実践のうち、路上にとどまることだけを切り取ってきて見てきたのではないだろうかと。飛躍を承知で敢えていうなら、マルチチュードの抵抗を容易に信じることには、もしかすると、両義的な生を生きざるをえない人の生の片方だけを切り落としサバルタン的存在にしてしまう力が潜んでいるのではないだろうかと。

ヴィルノは、善と悪という両義性の核にあるマルチチュードの存在様態として、便宜主義とシニシズムをあげている。そして便宜主義について、「便宜主義者とは、つねに相互交換可能な様々な可能性からなる流れに直面している者のことであり、またいちばん身近な可能性に従ったかと思うと素早く次の可能性へと赴きながら、これらの可能性を最大限に活用する人のこと」であると定義づけている。

このときAさんは、まさにヴィルノのいうように、施設で生活保護を受けること、公園で暮らすこと、実家に帰ることなど、さまざまな可能性からなる流れに直面していた。しかし彼女がこれらの可能性を最大限活用しているとは、私にはどうしても思えないのだった。

このように彼女たちの語りや行動は、まさに「断片」 *3とでも呼べるようなものだった。こうして一貫性なく語られるひとつひとつの断片や、長期的な視野もないまま、ただ目の前の状況に翻弄されて繰り返される脱出(エクソダス)のひとつひとつの断片が、縫いあわされることなく、まさに断片のままで存在しているのだった。



断片として翻弄されているだけの自分や経験。それを両義的な「最小の回路」としつつ、取り組めることは。▼「排除ゆえの悲惨」という要因があるのは確かだが、そういう一義的解釈のみに基づいた「反社会的存在」という理解は、古色蒼然としていて、それだけではもはや人は説得できない。



*1:丸山氏の注によれば、「一般的に福祉制度は女性を保護的に扱うため、女性ホームレスは本人が望めば一時的にせよ路上を脱出して施設に入れることが多く、男性より生活保護も受給しやすい」とのこと。

*2:パオロ・ヴィルノマルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために』(訳・廣瀬純)、p.235

*3:丸山氏による注:≪「断片」という言葉は、チャクラバルティがサバルタンの歴史を指して「必然的に断片化されていて挿話的である」と述べていることから着想をえている。≫