「犠牲は対象を価値づける」(id:knotさん)

 犠牲は所有の放棄というよりも、所有への執着に近いように思える。

「車に轢かれそうな子供を救う」のような、咄嗟の自己犠牲(考える前に体が動いている)と、慢性的で持続的な「理念化された自己犠牲」のちがい。――いや、そんなに簡単には分けられないか。理念化された自己犠牲が脊髄反射として起こる、ということも?
「単に自己否定的」な自己犠牲(「どうせ自分なんか」)もあると思う・・・――でも、そこまで考えても、やっぱり「自己犠牲」というのは、鏡像的(ラカン)な営みではないだろうか。

    • という感じで、考えているうちに「自己犠牲」がわからなくなってきた。▼自分自身を「所有」するのか、他者に「分配」するのか。▼何かへの忘我的没入は「自己犠牲」か*1。▼「労働」というモチーフにも関係するかもしれない。




*1:グレン・グールドが自らの演奏について、「陶酔感・浮遊感」を恍惚と語っていた(ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』を挙げつつ)のを繰り返し思い出す…(あるいは記憶違い? NHKの番組だったと思う)。