取り組み(論点)のポイント

私は先日から、ひきこもり問題というのは≪差別≫≪教育≫の交点じゃないかと思いはじめてるんだが、どうだろう。
「閉じこもっている、社会参加できない、外部世界とやり合えない、現実対処できない、自分で稼げない、自己満足的である」 ―― そういう固着したイメージに「ひきこもり」というラベルが貼られ、≪差別≫の対象になる。 「かつて引きこもっていた」とすれば、「履歴書の空白」が、また差別的待遇の理由になる。 → 法を犯しているわけではないのだから、「ひきこもり」や「履歴書の空白」にもとづく差別的待遇を認めてはいけないはず。
先日触れたが、差別的排除に反対すると同時に、もちろん逆差別的に厚遇があるわけでもない。 家を脱出して(生きるために)仕事を続けていくには、必ず何らかの≪教育(訓練)≫の要因が要るはず。


斎藤環氏 vs 高岡健氏の「ひきこもりを認めるか認めないか」みたいなやり取りは、「ひきこもりを認めるのは(反・差別という意味で)とてもいいけど、で、そのあとは?」という話になって、要するにけっきょく労働の話になる。 「ひきこもり差別はいけない」という意味では斎藤氏と高岡氏の間には違いはないと思うので*1、あとは労働(稼ぐ)という形で社会と接点を作れるかどうか、という話になる【しつこいようだが、「働かねばならない」のではない。「稼がねばならない」のだ。】。 このとき、労働者の精神的健康を問題にする「精神医療」(産業カウンセリング等)は絶対に取り除けない要因だが、≪教育(訓練)≫という要因は医療ではカバーしきれないはず。 けっきょく、医療の問題まで含みこんだ上での≪労働≫の話をする必要が出てくる。 「カウンセリング」という場合にも、心理学的なものだけでなく、「ジョブ・カウンセリング」、つまり「仕事との関係」を調整するカウンセラーの存在が重要になる。


また、斎藤氏と高岡氏の争点の1つが、「家を出る」という課題が「自発的か強制的か」というものだと思うのだが*2、これは≪教育≫という要因の中に含まれるアポリアそのもの。 自発性を期待できない個人へのアプローチから強制的要因を排除したら、その個人には社会参加のチャンスがない【何度も言うが、それは事実上の「見殺し」にあたる】。 しかし、では6歳の子供にではなく35歳の(肉体的には)成人に、どのような強制的要因を課すのか? 法的には一切許されないはずだ。


樋口明彦氏によると、イギリスのニート対策は事前的(つまり若いうち)の「予防 prevention」であり、日本のそれは事後的な「措置 measure」。*3
既存の言葉でいえば「リカレント教育」ということかもしれないが、とにかく年を取っていても、なんらかの「教育や訓練」を通じて社会との接点を探る、という要因は消せないはず。 「社会に迎合するな」というスローガンは大事だが、「反対のための反対」になっていてはどうしようもない。


ここであらためて、chiki さん(id:seijotcp)が出してくださったコミュニケーション論が気になる。 ≪コミュニケーション≫の中には、「差別との戦い」も、「教育」も、「自己を動機づける訓練」すら、含まれているのではないか。
そして、「ひきこもり」の人が最も恐れ、苦手とし、不能さに苦しんでいるのが≪コミュニケーション≫ではないか。 もちろん、性的なモーメントも含め。




≪差別≫ と ≪訓練≫ を軸に考えられないかと思うんだが、ピント外れだろうか?







*1:何度も言っていることだが、「ひきこもりは犯罪者予備軍」という偏見を取り除くのに最も尽力し貢献されたのは斎藤環氏だ。

*2:乱暴なまとめだが、ひとまずここではこう言っておく。

*3:イギリスのニートは16〜18歳、日本は15〜34歳(これは労働統計上の区切りのはず)。 年齢的に言っても、≪対策≫の性格に違いがあって当然と言える。 (この辺の話を含むこちらのイベントについては必ず報告します。)