自分という、逃げられない現実

夜、id:aimee より tel.。それぞれのジャンルにおいて、「当事者が、当事者のためにできること」について、かなり突っ込んだ具体的な話をする。お互い状況が煮詰まっているぶん、話がビジネスライクにさくさく進む。具体行動を切り開いてくれるようなドライな会話がありがたい。


「はやく PTSD を卒業したいと思っていたが、一生逃げられないということがわかった」と彼女。「必要なものは自分で生み出していくしかない」。
ジャンルは違うものの、「この苦しみを卒業できるのか」「どうこの問題と付き合っていくのか」というテーマには、共通したものを感じた。
先日の工藤さんではないが、「ひきこもりに関わっても空しい」のか。僕の場合、「逃げようにも逃げられないものに関わる」としか言いようがない。それは「自分の身体からは逃げられない」というのに近い。


ただ、PTSD は「症状」につけられた名だが、ヒキコモリというのは「状態像」だ。さきほど僕は自分のことを「当事者」と呼んだが、厳密には「経験者」にあたる。 id:aimee は現在でも症状に苦しむ「当事者」。ややこしいが、カテゴライズ(というかネーミング)のスタイルが違う。


僕の場合、「ひきこもり」というのは議論や活動のテーブルだ、ということだと思う。
今後の僕が変化していくにしても、ひとまずそこをくぐり抜けてゆくしかない。