偲ぶ会

昨日は、9月に自死した女性を友人たちだけで偲ぶ集まりだった。
亡くなったのは京都の山奥で、車に分乗して現地に向かったのだが、ここに彼女を苦しめていた有名ストーカーが同乗してきた。
この会のまとめ役は、かつての彼女の恋人で、またかつての僕の同居人だったS。 ストーカーGを同乗させたのも彼だった。
僕は現地でこのストーカーに大声をあげてしまったのだが、これには評価が分かれると思う。「偲ぶ会で怒り出すなんて」と。
しかし、亡くなった彼女のご両親が「名前も聞きたくない」と嫌悪するGを「その場所」に連れてゆき、その理由が「トラブルにしたくないから」というのは何か本末転倒していないか?
現地には、ご両親からの花束が届いていた。Sは、Gが出席したことをお二人にも伝えるという。――いちばん傷つけてはいけないのは、ご両親ではないのか?
遺書は両親だけに宛てられていた。その遺書(肉筆コピー)を含む追悼文集は、Gの手にも渡った。


単なる知人であった僕がこれほど傷つき怒り出したのは、傲慢だったろうか。


「偲ぶ会」といっても、参加者の思惑はバラバラだ。1分間の黙祷を捧げたが、あのような人工的な儀式は、だからこそ必要なのかもしれない。
彼女の亡くなった木の下に線香を突き立て、手を合わせようとしたら、大きなハチが飛んできた。恐くて意識を集中できない。この素っ気なく冒涜的なハチこそが、≪現実≫という気がした。