「制度分析」「制度を使う」という発想は、そもそもドイツ第三帝国の占領に抵抗するレジスタンス運動に深くつながっている。 以下、強調は引用者*1。
フェルナン・ウリ(ジャン・ウリの兄)の「制度を使った教育学(pédagogie institutionnelle)」は、トスケルやジャン・ウリらが発展させた「制度を使った精神療法」の考えに大きな影響を受けたのだが、さらにもう一つの参照項をもっている。 それは、セレスタン・フレネによって作られたフレネ教育である。 (略)
さまざまなコンプレックス、恐怖感、学校嫌い、非行をフレネは「学校病」*2と名づける。 (略) フレネは子どもの親とも親交を結び、さまざまな職人、生産者と接触をもった。 地域生産物販売を行ったり、消費協同組合を作ったりしている。 つまり、学校の周りの環境についてもフレネの目が入っていくことになる。その結果、フレネ事件(サンポール事件)が起こる。 1928年サン・ポール・ド・ヴァンスの小学校へ転任する。 学校の環境の劣悪さに驚いたフレネは、町当局に学校の便所の汲み取りや教室の修繕を要求すると、保守派の父兄と対立するようになり、子どもを不登校にさせたりデモをかけたりするようになり、問題が大きくなりフレネは結局、転職させられる。 この際、フレネは保守派の父兄の精神という学校外の環境を改善しようとしていたともいえるのである。 (略) やがてドイツ占領下でフレネは収容所に入れられるが脱出し、対ドイツのレジスタンス運動に参加していく。 (三脇康生「フランスのメンタルヘルス」、『教育と医学』2003年1月号p.38-9)*3
地域住民の考え方までが、「環境」要因として、「制度」として検討されている。
「制度を使った精神療法」は、フランソワ・トスケルという医師が始めたとされています。 彼はスペイン市民戦争の時代にスペインのファシストであるフランコ将軍から死刑宣告を受けて、いたしかたなく南フランスのサンタルバン病院へと亡命してきた精神科医です。 (三脇康生「制度論的看護のために (1)フランスの制度論とは何か」、『精神科看護』29(4)、2002年4月、p.60)
ロゼール県*4にあるこの病院には、地元の住民と協力して、医者や看護師や患者が食料の確保に団結してあたった。またこの病院には、ドイツやスペインやフランス国内から亡命してきた医者が、働いていた。だからこそさまざまな考え方がこの病院には持ち込まれた。この時この病院で考えられ始めたのが、いかにして「病院自体を病気にしないか」という議論であり、病気を療養している人たちが暮らす病院を、なによりもファシズム的な硬い抑圧的な精神(つまり病的な精神)から、いかに縁遠いものにするかという問いがあらゆる人によって持たれていた。 (三脇康生「歴史と文化の観点から見たフランス精神医療における「物質性」について」、『臨床精神医学』2002年6月、p.632)
教育も精神医療も、人が人に関わって影響を与える。その場にどんな力関係が機能しているのか、つねにリアルタイムの分析をかけ具体的に働きかけ、関係そのものを組み替えてゆく。 お互いの役割意識を、最初の段階の想定通りに固定しないこと。
この十分な反省を伴いながら何かを作り上げる、という意味を持つフランス語の動詞が instituer である。 そして日本語で「制度を使った」と訳しているのは instituer の名詞形 institution の形容詞 institutionnelle である。 英語でいう institution は、患者を単に収容する施設という意味になるが*5、フランス語の institution は、患者と医療者が何かを共に打ち立てていく場所と考えられた。 患者の居る場所で働く治療者の姿勢やその場の人間関係が偏って硬直化して、それこそスタッフ自身のあり方が「病」にかからないような工夫を細やかに行うのが、「制度を使った精神療法」派の主張である。 ルーティン化した発想や硬い関係性を崩して再度作り上げていく、その風通しが重要なのである。 (三脇康生「フランスのメンタルヘルス」、『教育と医学』2003年1月号p.41)
自分という実体がまずあって、それが制度に参加している、とのみ考えてしまうと、話が見えなくなる。 自分の意識自体が一つの制度として、外部世界との関係の中でリアルタイムに営まれている、そこまで含めての改編や取り組みが問題になっている。 個人の努力は、どんなに “自由な” 営みであっても、それ自体がその形において制度的に成り立つ。 ここでは、労働過程そのものの試行錯誤と動的編成が問題になっている。