論者自身の、当事者的論点化

書籍を含め、全文を通読されることをお勧めする。細かいデータや社会学的知見が参考になるし、仮にそれが誤っているとしても*1、その検証作業がまた有意義だろう。 私自身、講演会等で井出氏の情報を参考にさせていただいている。
私が本書や上記座談会に言及するとしたら、その趣旨は斎藤環への批判趣旨(参照)と重なる。 つまりここでは、主体の危機がそれ自体として主題になっていない。


――いや、実は語られている。

macska: たしかに多くの女性は「理想的な身体像」を内面化してダイエットしたりしますが、摂食障害はそれとは別だと思います。その別の何かを、わたしはいつもコントロール感と言っているんですが。自分の体をコントロールすることで、不全感から逃れる。
chiki: なるほど
井出: コントロール感というのは一番ピッタリくる言葉ですよね。

「コントロール感」というのは、ひきこもりについても見事な指摘だ。 しかしmacska氏は、ご自身がどうやってそれを克服しているかをまったく語らない。 これは、macska氏が摂食障害や引きこもりの「当事者」であるという意味ではない。仮にmacska氏が特定のメンタルな弱者属性を抱えていなくとも、「個人としての自己構成」は誰にとっても当事者性があり、そこの部分で論じるのでなければ、ひきこもりで体験される環境順応や自己維持の危機は、「観察対象」になってしまう。これではモチーフを共有できず、論じられている相手とは協働できない。


chiki氏が、まさに環境と順応との関係に言及している。

chiki: 入院させられた精神病患者が、毎日単調な作業で病院内での秩序構成に適応させられることで、むしろ社会に出ずらくなるみたいなことが、不登校やその他逸脱にもあるんだよね。そういう状態にしてしまうとむしろ逆効果。

ここで語られている「秩序構成」には、周囲の人間の主体構成の事情がどうなっているか、ということも関係している。その場にいる人たちの主体構成の事情は、その場の関係ロジックを決めてゆく。そこまで含めての、主体にとっての《環境》なのだ。


この座談会の三氏は、環境適応と主体の危機の関係に言及しつつ、しかしそれはあくまで「言及される」だけで、その事情が論者たち自身について語られたり、その困難にどう取り組んだらいいのかという問いにはなっていない。摂食障害やひきこもる主体の危機はあくまで彼らにとって「他人事」、自分にとってはすでにクリアしてきた何かでしかない。 私が既存のひきこもり論に感じる決定的な苛立ちはまさにここにある。 「で、語ってるあんたは、どうやってそこの危機を処理してるの?」  元気な人であっても、危機はプロセスとして日々処理されている。その処理において社会参加している。――そこの手続きをこそ検証しなければ、主体の危機は「他人事」で終わる。


端的に言えば、この座談会のお三方自身は、それぞれどうやって「コントロール感」を手に入れているのだろうか。

井出: 親には、自分の子どもが不登校になったら、人並みになるように願うのではなくて、それはひとまずあきらめて、いろいろなことを経験させて、人とは違った生き方を選ばせて欲しいなと思います。

これを語っている井出氏自身は、国立大学の大学院におり、社会学が受けている制度的承認等を通じて、社会参加の手続きを得ている。井出氏にとって、主体の危機の克服は「社会学ディシプリンに順応すること」と深く結びついているのだが、「ひきこもりを論じる井出草平」は、そのことにまったく言及しないまま、いわばまったくメタの地点から「人とは違った生き方を選ばせてあげて欲しい」と語っている。語っている本人は順応者なのに、語られた対象にはそれをさせるなと言っている。 ここでは、語り手の構成のされ方が、語られた側の構成のされ方と切断されている。 学者の語りはメタの王国にあり、語られた側は観察対象でしかない*2。 そこで正当化された「観察という目線の制度」がどう構成されているのか、その制度を構成している本人自身は主体の危機をどう処理しているのかは、分析的に自問されない。
精神科医も知識人も、どうしてもこういう「他人ごと語り」から抜け出せない*3。 「語っているおまえ自身が、語ることを通じて構成されているだろうに。そのときお前は、どういう手続きで正当化のチャンスを手に入れ、どういう手続きでみずからの主体の危機をなかったことにしおおせたのか」。 ここのところで語る人が、本座談会に限らず、ほとんど一人もいない*4


アカデミズムをはじめとする「正当化(political correctness)」の語りでは、自分のことを論点に含みこんだ語り方は、ほぼ「ナルシシズム(自分語り)」と見なされる。しかし私がひきこもりに関して必要だと考えているのは、地道な分析労働としての「論点化」だ。 自分で自分のいる場所を遡及的に対象化し、分析してみること。まずければ、そこを組み直してみること。それは「当事者」の特権に居直るナルシシズムではなく*5、自分と場所をあとになって他者化し、そこで無私的な分析労働に没頭することであり、それを通じてみずからを構成することだ(参照)。 問題となっているのはあくまで労働(分析労働)であり、端的な自己肯定の居直りではない。むしろ真逆だ。


既存の正当性のコード(べき論)に基づいた知識人や学者の語りは、自分のことを等閑視しているようでいて、実は語りのコードに従うことであまりに素朴な自己肯定を得ている。ディシプリンに従って内容のアリバイを調達し、語る主体は正当性のナルシシズムを許される。私が問題にしているのは、自分に分析をほどこさないその傲慢な居直りだ。 ▼いっぽう対人支援の現場にも、「とにかく目の前の支援対象に没頭すればいいのだ」という、業務に忙殺される居直りがある(試行錯誤のスタイル自体が制度的に硬直している)。 さらにまた、「自分は当事者なんだ」という被支援者のナルシシズムがあり、また別枠でご家族がおり、さらにまた別枠で、第三者の事情とナルシシズムがある。――それぞれの居直りと関係構図が固定されており、不毛すぎる。
一人ひとりはどう構成され、どうみずからの危機に取り組んでいるのか。それを各人が自分について語らなければ、関係の中で体験されている危機*6は、いつまでたっても主題化されない。 生きられた危機が関係の中で考察されず、いつまでたっても「観察対象」にとどまる。





*1:井出氏は、自信たっぷりに現場的知見らしいことを語るのだが、彼が調査者として実際に接しているケースはごくわずかであり、やや疑問も残る。ただ、逆に言えば現場発の議論を鵜呑みにすることもできない。「書物経由の議論」と、「現場から立ち上げる議論」の関係が、ここであらためて問われる。 ▼書籍としての趣旨はやや異なるが、より長期かつ多数の事例に接し、2001年以来の業界事情や雰囲気を伝えるものとして、石川良子『ひきこもりの〈ゴール〉』がある。

*2:これでは井出氏にとっては、私(上山)も「観察対象」だろう。あとは私が語り手を目指すなら、学者というメタの王国に入れるかどうかの問題になる。▼アカデミシャンという制度的目線を硬直して維持する限り、原理的にそうなってしまう。 私のいう「論点化」は、そこに抵抗している。

*3:当事者カテゴリーを極端に特権化する(左翼的な)そぶりは、その「他人ごと語り」においてみずからのアリバイを調達する。弱者への援助を「正義」として語ることにおいて、自分自身への分析を忌避し、免除されていいことになっている。 苦しむ他者の存在(カテゴリー)は差別的に別格化され、支援運動の口実になる(貧困者・部落差別・フェミニズム・障害者・etc...)。そこで支援者は、みずからの主体を構成する。正義の標榜自体が、「コントロール感」に貢献している。いわば、正義への嗜癖。 ▼反差別の活動家がひどい差別発言をしがちなのは、ここに理由がある。差別的特権化の枠組みを作ったうえでの支援は、差別的排除と完全に同じ枠組みだ。それは学者や支援者自身によっても、「見下し」のフレームとして利用される。

*4:本稿で私が扱おうとしているモチーフは、当ブログでは何度か言及した「psychothérapie institutionnelle(制度論的精神療法)」と深く関係し、これを参照している。 教育学(pédagogie institutionnelle)とも連動するこの運動は、ある種のラディカルな当事者的論点化(みずからを他者として場所化する論点化)のことであるらしい。 ▼三脇康生は、先日の「第39回 日本芸術療法学会」(10月27〜28日)で、「psychothérapie institutionnelle」を制度を使った精神療法と訳すことを提唱している。 三脇によれば、この運動の中心人物の一人であるフェリックス・ガタリの議論は、日本に紹介される際、その臨床的・分析的な、つまり政治的な意義をすっかり黙殺されているらしい(参照)。

*5:貴戸理恵参照)など、現状ではそうした当事者論しか見当たらない。

*6:現時点では構想にとどまるが、生物学的要因によるとされる発達障害を、この観点から再検証できないだろうか。▼本エントリーが発達障害をほとんど扱っていないのは、(1)生物学的要因によるのであれば私の語るべきことはほとんどないこと、(2)関係や主体のプロセスが要因であれば、「生物学的要因による」とされる現状の理解を根底から問いなおさねばならないこと――による。 発達障害は、それ自体が激しい論争焦点になっている。

「あなた自身は、どう構成されているの?」

ここのところで、日本の知的言説はどうやらシフトチェンジに失敗している。70年代の情念的左翼主義から、80年代以降のお気軽なポストモダンへ。近年の左翼言説が、きわめてベタな教条的情念主義や脅迫主義に堕しているのは(参照)、80年代から続く「お気軽な正当化」へのリアクションにも見える。既存のアカデミズムや知識人の言説は、体験されている危機をミクロに扱わず、「だいたいこういうことを言っておけば正しいことを言ったことになる」というレベルの話しかしていないのだ参照)。ほとんどの知的言説は、語っている内容そのものの真偽にばかり気を取られて、語っている自分自身がどういう環境におり、どう構成されているかを分析しない*1。 語り手はつねに、形式的な「べき論」か、アカデミックなアリバイ作りの言説しか試みていない。 「それを語っているあなた自身は、どう構成されているの?」という話は、「○○であるべきだ」という喫緊性や見せかけの正当性によって、ひとまず脇に置かれてしまう。
自己分析がいくら脇に置かれようとも、ある努力のスタイルが事実として生きられてしまうのであり、そのことの皺寄せは、必ず誰かに行っている。――この有責性が、ひきこもる本人についても問われなければならない。ひきこもる危機と行為は、他者との関係の中にある。 ここでは、傷の特権化ではなく、プロセスの危機に関する協働と有責性が問題になっている。

macska: で、カウンセリングはともかく、社会施策的な処方箋を聞きたいわけですが。

選択肢として、個人の心理をこねくり回す「カウンセリング」と、その対極の社会施策しか考えられていない。そもそも、macska氏のいう「コントロール感」とは、主体の経験するミクロな政治のことだろうに。 当事者的論点化は、ナルシシズムではなく、個人の政治化の問題であり、プロセスとしてそれを目指している。
斎藤環のいう再帰性実体化への処方箋として、私にはこれ以上の案を思いつかない。 社会全体のレベルではさまざまな長期的施策が必要であり、そのために社会学的な議論は必須だとしても、それはすでに苦しんでいる主体に何のヒントも与えないし、支援者やご家族に、環境改善の直接的ヒントや有責性も与えない。アカデミックに語る本人自身が、語るみずからの主体プロセスをなかったことにしている。


その2につづく】


*1:たとえば「環境管理と動物化」を語る東浩紀は、動物化論自体を手放してみずからが動物化することはない。動物化論にこだわる東自身は、きわめてメタ的・人間的に構成されている。▼そこでは、自己の構成が具体的に(才能の導きのもとに)実演されるばかりで、その自己の構成の難しさ、そこで経験されるプロセスの危機それ自体が主題になることはない。危機は、才能によって単に「克服され」、環境や関係のミクロな問い直しが主導的なモチーフになることはない。