「見なければいけない現実を突きつける」のは、迷惑行為であり得る。

見なければいけないと思う現実がお互いで違っている。(お互いで宗教が違うようなもの)
「見なければいけない現実」は、ひとまず制度的・権力的に、あるいは惰性で、だいたい決められている。「これさえ見ておけば文句は出ない」という現実の範囲や枠組みがある。
倫理的に「見なければならない現実」はその制度の枠外にあるが*1、「見なければならない現実」は、たいてい不愉快なものであり、それを見る努力を共有しようと押し付けることは、ヘタをすると迷惑行為であり得る。
私は、自己分析的な姿勢を自分の努力のコアにしている。しかし「自己分析」は、多くの人にとって*2不快の極みでもある。ほとんどの人は、自分の不都合な現実を見ようとしない。
誰かがしんどい現実を見ようとしないことで、ほかの誰かにひどい皺寄せがいく。「迷惑だから、この現実を見ろ!」と言いつのることは、相手にとっては迷惑でしかない。そこを調整するのは、政治や法の問題になる。
ひきこもっている人に、「現実を見ろ!」と押し付けることは、ひどい迷惑行為であり得る。しかし、扶養する負担を押し付けられている家族ならば、言う権利があるかもしれない*3。――第三者が「現実を見ろ!」と言うのは、どんな正当性を持つのか。(相手に現実を突きつけた人間が、自分の現実からは目をそらしていることがあり得る。ひきこもっている本人にもありがち。)


労働は、「現実を直視すること」を含む。労働とは、「誰かが見なければならない現実を、代わりに見ること」に思える。そうではなくて、「誰かが現実を直視するのを助けるための労働」というのは、ないのだろうか。
私が今のようなやり方で生きていることは、誰かにとって不愉快な現実であり得る。どこまでどんな現実を見れば、私は赦されるのか。





*1:あるいは、「視線の制度」そのものを分析する必要がある。 【参照:「『メディアを疑うこと』を疑うこと」(北田暁大)】

*2:私自身にとっても

*3:扶養を押し付けられることは、たいてい迷惑だ。