参加者としての、フレームの換骨奪胎

「ああこれは自分だ!」と思えること」(三脇康生

 精神分析ラカン)や精神医学(ガタリ)から大きな影響を受けているにもかかわらず、精神分析や精神医学の現場を何も知らず我田引水する日本の批評文に辟易とし、むしろ精神医学を学んでみようという若気の至りをしてしまった自分の経験を思い出した。 (中略) しかし都合良く精神医療の現場から、批評概念に真実みを与えるような旨味を搾取することは不可能であり、結局、精神医療の現場にどっぷり浸かって初めて、所期の目的も果たせるようになりつつあるのだと考えている。



「現場と理論」というだけでなく、「統計的手法(数が勝負)と、分析的手法(メタ的掘り下げ)」という対立軸も、関係すると思う(対立というか、両方必要なのだが)。
たくさんの事例を知っていることは、考察が信憑性を帯びるためにどうしても必要になる。現場にかかわり続ける人しか得ていない情報が絶対にあるし、つねに学び続ける必要がある。しかし逆に言えば、情報だけが氾濫していて、その現場にどのような理論が無自覚に機能しているか、ちっとも分析していないということがあり得る。(外から理論を押し付けるのではなく、現場で生きられている理論が換骨奪胎され生きなおされる、そういう換骨奪胎の作業こそが永続する必要がある。)


理論をやればいいというのではない、しかし現場に居ればいいというのでもない。現場にいる人はなにがしか自分の意見を言いたがるが、それはすでにして「理論」を提示している。理論を持たない人間などいない。その理論(考え方のスタイル)には、それを語る人の欲望が表現されている。 ▼ある程度以上の事例数を知ることは必要だが、そういうこととは別に、自分ひとりを容赦なく分析する作業が必須だ。それは特権的な当事者ナルシシズムに浸ることではなく、全員がすでに生きている当事者性(弱者性ではなく、関係者として一翼を担っているということ*1)を、自分に関して俎上にのせるということ。自分の私的心理を考察するだけでなく、その自分の心理が、どのようなフレームを生きてしまっているのかをも分析すること。その分析の作業が、それを対話的に改変する作業でもあること。制度において「高い点数を取ること」に、偏執的なナルシシズムを見いださないこと(かといって専門性を等閑視しないこと)。
こうした努力*2において、私は三脇氏と深く指針を共有できる(学べる)と感じ、そのことに強い恩恵を受けている。今の私が、「制度論」といわれる議論*3に興味を向けざるを得ないのは、以上のような理解による。



 精神医学と現代美術の二つの領域を行きつ戻りつして、結局、私の得た貴重な感触は、患者へも作品へも「ああこれは自分だ!」という気持ちが起きなければ、深い治療も批評も出来はしないということである。これは患者や作家に「入れ込む」ということとは違う。患者の持っている思考のフレームが治療中に変化し移動すること、作家の持っている感覚のフレームが制作中に変化し移動すること、医者の持っている診断のフレームが治療中に変化し移動すること、批評家の持っている概念のフレームが鑑賞中に変化し移動すること。このフレームの移動が起きたとき「物質感」が生じ、そのお陰で「ああこれは自分だ!」と思える、アニミズムとは違う「実在感」を得ることに成るのではないか。



「ああこれは自分だ!」というのは、実体化された当事者ナルシシズムとは別の当事者論に思える。
取り組む作業自体がフレームを改変的に創造してゆく、フレーム自体に自分で取り組むようなしんどい労働がそこにあること。「フレームが変化し移動する」と言っても、あるフレームから別のフレームにゲーム的ナルシシズムの主体がひょいと移動して悦に入るのではなく、自分の生きてしまっているフレームをひきうけ分析し抜くことで、それを支え抜いてみることの中で、おのずから別のフレームが生きられざるを得なくなること、その内的必然の自己生成の支え抜きの話であって(ものすごくしんどい)、何も努力をしていない人間がただ別のフレームに自分のナルシシズムを憑依させればいいという話ではない。肩を組めれば別の領域と協働できたなどというバカな話はない、それぞれが自分の領域と自分個人にメタに取り組むことで初めて共有できる議論がある、そうしたことだ。


学問のディシプリン*4を生きる者が、それを生きる当事者として自己分析・制度分析をし*5、いっぽう現場で当事者性を生きると自負する者は、自分がいつの間にか生きているディシプリンを学者的に自己分析・制度分析すること。――その両方の出会いが生まれず、学者は学者のフレームで自分の当事者性を生き、現場*6現場のフレームで自分の当事者性を生き、それぞれがメタな分析を持たないために、出会いの契機が生まれない。(学問と現場に、内在的で解消不可能な齟齬と呼べるものはあるだろうか。)  ▼出会いや連帯というのは、別領域の人間が何もせずにただ出会って「一緒にやりましょう」と言えばいいのではない。それぞれが自分の領域の当事者としてメタな分析をひきうけ抜くところで、共有できるモチーフがあるかもしれない、では一緒にやれることがあるのではないか、そのテーマごとに共鳴しあう支え抜きが、一時的に維持されるというだけのこと*7。 ただ鏡像的に籠絡しあって「あいつは仲間なんだ」と悦に入ることではない(それは全体主義でしかない)。


「定常状態にあると、フレームは意識されない」(三脇氏)。 それぞれの人間が、それぞれの領域で当事者意識を持ちつつも、その当事者性のフレームを固定しないこと。それは当事者フレームを固定することでも、当事者意識を持たないことでもない。 ▼「フレームの変化と移動」は、氏の取り組む制度論的精神療法の、とりわけ「制度論(institutionnelle)」という考え方の、エッセンスに見える。



*1:弱者性は、むしろ「特殊な形で一翼を担わざるを得なくなっている」ということだ。

*2:以上の記述は、私が自分の責任で記したものだが、三脇氏の論考や発言から強い示唆を受けている。

*3:制度論には、教育に関するものもある。 cf.『学校教育を変える制度論―教育の現場と精神医療が真に出会うために

*4:=フレーム

*5:学問には学問の現場性と、それを支える者の当事者性がある

*6:支援者、本人、ご家族など

*7:「履歴の蓄積」は、また別の問題か。