おことわり

先日のイベントを終えての私的なエントリーです。
引用部分には誤り等あると思いますし、公的な記録ではありませんのでご注意ください*1
取り上げられたモチーフはこれで全てではありませんが、今後も継続的に検討する予定です。





*1:主催者側で、音声などの記録をとられているようです。 当ブログでの引用に間違い等があれば、後日訂正しようと思います。

「欲望・未規定性」の体験枠組みとしての再帰性

ICCシンポジウム」の斎藤環氏の発言から、少し引用します。 私が今回の対談イベントで言いたかったこと、そこからあらためて整理してみたことは、こちらのご発言との関係で考えたほうが分かりやすいので。

 ヨーロッパのアーティストにはメタレベルがあるというが、それだけでは作品は作れない。 オブセッションがどこにあるか。 その自分のオブセッションに対してどこまでメタを維持しているか。 ▼情報がフラット化(Google化)した世界、つまり「再帰性の回路が広がった世界」において、「アーティストにとってのオブセッションをどうキープするか」。

再帰性そのものがオブセッション化しているのがひきこもりである。
ひきこもり支援は(斎藤環氏まで含めて)再帰性オブセッションを「緩和・忘却」させる方向を目指しているが、再帰性の枠組みというのは、日常性を欲望できないひきこもり当事者にとっては欲望の枠組みそのものであって、このオブセッションを奪い去れば自己管理の鍵自体が失われる。 症状を脱失されるような状態*1。 ▼症状の脱失と忘却において社会復帰できる人が出てくること自体は否定すべきではないが、それがレアケースでしかないなら、「症状枠そのものを活かす」という方法を考えてもいいはず(私はそういうスタイルを採っている)。

 藤幡さんへの質問は、「答えづらさの部分」を期待した。 つまり《症状化》ということ。 ▼言語ゲームの中で出会う再帰性(自己言及のパラドックス)はきれいだが、ネットワークの中で生じてくる再帰性には、どこかしらで得体の知れないもの(「第三の審級」、超越論的なもの)にぶつかる可能性がある。 そういった「根拠付けの難しいもの」が析出してくる回路としては、ネットワークは使いようがあるのではないか。

ひきこもりにおいては、再帰性の極限化を体験する枠組みと、「根拠付けの難しいもの」を体験する枠組みが同一である。 再帰性に舞い戻っていかざるを得ない強迫的反復は、未規定性*2の体験枠組みそのものになっている。
ひきこもり支援は、「未規定性を忘れ去って、体験枠組みを(社会に受け入れられるような形に)固定しろ」というメッセージを含むが、むしろ未規定性の経験は生活感情の根幹を成すはず。 「忘れ去れ」ではなく、それを活かす道を。

 《文明》とは、生存のために欠かせない合理性。 いっぽう《文化》とは、生存に欠かせない非合理性。 最近は前者ばかり目立つのが気になる。 ▼もちろん、《文化的なもの》ばかりが突出するのも問題がある。 文明と文化とが相互に批評し合うような形で発展するのが健全なんだろう。

ここで言う「文明」とは、私が震災で体験した「日常」にあたる。 私はその「文明=日常」の崩壊において異様な自由を体験したのだが、その体験そのものに決定的なヒントを見出すということ自体は「文化」でも、それはしかし具体的な臨床的可能性(文明)につながっている。
大事なのでリピートする。
震災における自由の体験の原体験化は文化でも、それは臨床的可能性へのヒントになっている。






以下、対談イベントより。



*1:晩年のラカンは、「症状symptom」を「症状sinthome」とつづり変え、これを倫理的自己統御の要とした(と私は理解している)。 ここでの私は、このラカン的「症状」概念を参照している。

*2:「未規定性」については、『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル (ちくま文庫)』を参照。

「支援者としての欲望」

斎藤環

 医学生として最初は統合失調症に魅せられていた。 今はひきこもりを専門にやっているが、どうしてなのかよくわからない。 先生だった稲村博の問題*1、ひきこもりについて出した本*2が自分の唯一のベストセラーになったことなども「きっかけ」だが、なりゆきで背負い込んで、惰性でそれが続いているだけという面もある*3。 「使命感」というわけではない。



斎藤氏は「ひきこもりには欲望がない」と言い、私もそう考えてきたが、それは「日常性に対して欲望がない」ということであり、再帰性=懐疑の枠組みの狂暴な維持において欲望をすでに生きているとも言える。
日常性への、あるいは何であれすでに欲望の枠組みを生きている人は、自分がなぜその欲望を生きていられるのか自覚していないし、そこを反省的に問い直すこともしない。
たとえば経済学やリベラリズムの議論に熱中している人は、その議論に夢中になることにおいて欲望を生きているが、その欲望の当事者性そのものを話題にされることは多くの場合生理的に嫌悪される。 当事者発言というものはほとんどの場合「自分の個人的な苦しみを吐露するだけの露悪趣味」であり、それへの嫌悪と同一視されてしまう。
しかし私が考えているのは、誰であれ欲望の枠組みが維持されているということは、そこに継続的な「信仰と似た枠組み」が維持されているということ。 私はその信仰=欲望の枠組みが維持されている構造そのものを問題にしている。 それはある意味でナルシシズムの構造を問題視することであるから、そこに生理的嫌悪も出るのだろう・・・・。
ひきこもり支援者は、「若者を社会復帰させよう」という自分のミッションとそれに賭ける自分の欲望を疑いもしないことが多いが(そしてそれは大変なエネルギーを要する事業を推し進めるのに必要な要素でもあるのだが)、そもそも支援される側の本人の欲望が明らかになっておらず、家を出たいのかそのまま死にたいのかさえよく分からない事情で、いったい何が「支援」にあたるのか、そこのところから反省的に問い直す姿勢を持たずにいられるだろうか。 支援事業は分業制だから、そうした反省を持たずに受け持てるセクションがあることは間違いないが、支援の原理をなす部分で対話的な検討を重ねるためには、「取り組んでいる自分の欲望」の部分(「自分は一体何をしようとしているのか」)で分析的な姿勢を持ってもらわなければ話にならない。
斎藤氏はその意味で、カッコつきの“支援”に関わる自分を、ということはそこに関わる自分の欲望を問題化し――それは精神分析の枠組みそのものだろう――、単に投げやりになるのではなく、反省的に問い直している。 斎藤氏自身にも答えが出ているようには見えない。


ひきこもっている人はどうして自分が引きこもったか分からないが、支援者の側も「どうして自分は支援を志しているのか」が分かっていない*4。 支援する側にとってもされる側にとっても、「確信的原動力」と「繊細な自己検討」の両立が課題になる。 そこで問われているのは、いずれも「欲望」である。
支援される側がみずからにおいて活用できる推進資源は、狂暴な再帰性の枠組み以外ないように思われる。 いっぽう支援者の側は、再帰性がそのまま推進力の減退につながりそうな恐怖を感じる。 だから防衛反応として再帰性や自己分析を拒絶するのではないか。





*1:不登校児童への「治療」

*2:社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)

*3:斎藤氏は、あるインタビューで「生きる動機づけは何ですか?」と訊かれて、「惰性と忙しさ」と答えている。

*4:場合によっては、支援欲自体が目的をスポイルする。

「新しい役割理論的な位置づけ」

斎藤環

 パーソンズの「病人役割」は私も参照しているが*1、いささか古い。
 ひきこもりが社会学に突きつけている問題として、「ひきこもっている人を、公正さの観点からどう位置づけるか」ということがある。 「位置づけなくていい」という野蛮な議論は相手にしていない*2
 新しい役割理論的な位置づけが必要。



「病気でも障害でもないのに働くことができない」という実情は、公共圏・および私人間(しじんかん)の関係においてどう位置づけられるべきか。 何をどのように考えれば、扶養者・本人・社会にとって、公正さを欠いた判断にならないか。




*1:社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)』 p.118

*2:たいへん強調されていた。