ネットラジオ



てことで、電話出演させていただく予定です。 どういう内容になるかは、当日のお楽しみ…。







「上司からのとんでもない指令を書け!」 *1

以前から気になってたこと。 雇用されたりフリーだったりで仕事してるかたの話を聞くと、必ず身近の「変な人ネタ」を持ってる。 私は雇用としてはアルバイトの経験しかないが、それでも「はぁ?!」みたいなひとを何人か目撃してる。
「職場の理不尽」というと社会派ネタっぽくなるけど、どうも「厳しい仕事場」のその「厳しさ」のかなりの部分が、なんだか異様〜〜〜ぅ な原因だったりするんじゃないのか。

106 :名無しさん@明日があるさ :04/08/20 00:57
   寝坊した上司が
   「なんで電話してくれなかったんだ!」と。
   あんた小学生か?
   しかし社会は小学生の集まりだと知るのに
   それほど時間はかからなかった。
   新卒のころは社会人は大人だと思っていたんだけどな。

社会に入っていけないで悩んでるのが心底バカバカしくな(ry


これ、案外冗談ネタですまないんじゃないのか。







『蕩尽伝説』内にある 「デリダ・インタヴュー」 (デリダ最後のインタビュー)より。

インタビュアー : 「それが私であれ、あなたであれ、誰かが前に進み出て言う、『私はついに生きることを学びたいと願う』」*1

デリダ : 生きるすべを学ぶことが「成熟」と「教育」にかかわっていることに注意せねばなりません。 誰かにぶしつけに声をかけ、ときに恫喝するような口調で「お前に生きかたを教えてやる」などと言う。 お前を一人前にしてやる、仕込んでやる、というわけです。

蕩尽伝説氏 : これは事実である。 他人を道具にして自我を拡張しようとする。 ハゲのオヤジのヘゲモニーである。*2



ハゲのオヤジは余計だが、「成熟と教育」に関する論点として大事なところだと思う。


自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)』のなかで、東浩紀氏が現代の権力につき、「規律訓練から環境管理へ」という言い方をされていて、ずっと気になってる。
ラカン研究をされている佐々木孝次氏が著書*3の中で、あるフランス人が日本人の子供を見て「加工されていない」という意味の単語を言ったエピソードを紹介されていた(非常に強く印象に残ってる)。 規律訓練的に教育されない子供が、ナチュラルなままに「完全に管理された環境」の中に放たれる。 誰も「○○しろ」とは言わないが、逆に言えば対話的に環境と付き合うチャンスもなく、「環境の論理」は自然法則のような絶対性を装う。 斎藤環氏がどこかで、「最近の若者は変化を信じていない」と言っていたが、≪自由≫と聞くと、私はいつも「鉄の環境」と、「その檻の中に放たれた野生児」を思い出す。







*1:『マルクスの亡霊』に出てくる言い回しとしてインタビュアーが引用

*2:こちらより。

*3:どれだったかは失念。ご存知のかたいます?

取り組み(論点)のポイント

私は先日から、ひきこもり問題というのは≪差別≫≪教育≫の交点じゃないかと思いはじめてるんだが、どうだろう。
「閉じこもっている、社会参加できない、外部世界とやり合えない、現実対処できない、自分で稼げない、自己満足的である」 ―― そういう固着したイメージに「ひきこもり」というラベルが貼られ、≪差別≫の対象になる。 「かつて引きこもっていた」とすれば、「履歴書の空白」が、また差別的待遇の理由になる。 → 法を犯しているわけではないのだから、「ひきこもり」や「履歴書の空白」にもとづく差別的待遇を認めてはいけないはず。
先日触れたが、差別的排除に反対すると同時に、もちろん逆差別的に厚遇があるわけでもない。 家を脱出して(生きるために)仕事を続けていくには、必ず何らかの≪教育(訓練)≫の要因が要るはず。


斎藤環氏 vs 高岡健氏の「ひきこもりを認めるか認めないか」みたいなやり取りは、「ひきこもりを認めるのは(反・差別という意味で)とてもいいけど、で、そのあとは?」という話になって、要するにけっきょく労働の話になる。 「ひきこもり差別はいけない」という意味では斎藤氏と高岡氏の間には違いはないと思うので*1、あとは労働(稼ぐ)という形で社会と接点を作れるかどうか、という話になる【しつこいようだが、「働かねばならない」のではない。「稼がねばならない」のだ。】。 このとき、労働者の精神的健康を問題にする「精神医療」(産業カウンセリング等)は絶対に取り除けない要因だが、≪教育(訓練)≫という要因は医療ではカバーしきれないはず。 けっきょく、医療の問題まで含みこんだ上での≪労働≫の話をする必要が出てくる。 「カウンセリング」という場合にも、心理学的なものだけでなく、「ジョブ・カウンセリング」、つまり「仕事との関係」を調整するカウンセラーの存在が重要になる。


また、斎藤氏と高岡氏の争点の1つが、「家を出る」という課題が「自発的か強制的か」というものだと思うのだが*2、これは≪教育≫という要因の中に含まれるアポリアそのもの。 自発性を期待できない個人へのアプローチから強制的要因を排除したら、その個人には社会参加のチャンスがない【何度も言うが、それは事実上の「見殺し」にあたる】。 しかし、では6歳の子供にではなく35歳の(肉体的には)成人に、どのような強制的要因を課すのか? 法的には一切許されないはずだ。


樋口明彦氏によると、イギリスのニート対策は事前的(つまり若いうち)の「予防 prevention」であり、日本のそれは事後的な「措置 measure」。*3
既存の言葉でいえば「リカレント教育」ということかもしれないが、とにかく年を取っていても、なんらかの「教育や訓練」を通じて社会との接点を探る、という要因は消せないはず。 「社会に迎合するな」というスローガンは大事だが、「反対のための反対」になっていてはどうしようもない。


ここであらためて、chiki さん(id:seijotcp)が出してくださったコミュニケーション論が気になる。 ≪コミュニケーション≫の中には、「差別との戦い」も、「教育」も、「自己を動機づける訓練」すら、含まれているのではないか。
そして、「ひきこもり」の人が最も恐れ、苦手とし、不能さに苦しんでいるのが≪コミュニケーション≫ではないか。 もちろん、性的なモーメントも含め。




≪差別≫ と ≪訓練≫ を軸に考えられないかと思うんだが、ピント外れだろうか?







*1:何度も言っていることだが、「ひきこもりは犯罪者予備軍」という偏見を取り除くのに最も尽力し貢献されたのは斎藤環氏だ。

*2:乱暴なまとめだが、ひとまずここではこう言っておく。

*3:イギリスのニートは16〜18歳、日本は15〜34歳(これは労働統計上の区切りのはず)。 年齢的に言っても、≪対策≫の性格に違いがあって当然と言える。 (この辺の話を含むこちらのイベントについては必ず報告します。)

メモ

≪差別≫に関しては(社会に対して)「価値敵対的」だが、≪訓練≫に関しては(なんらかの仕方で)「価値順応的」になる。
左翼系の場合「株式会社以外の働き方を」というわけで、資本主義という場の論理自体を認めないということになるのだと思う。 私はそれを無条件に否定するものではないし、「地域通貨」に興味を持つのもそうした一環。 繰り返し同じ話をしているようだが(実際にしているのだが)、論点を洗練してきているつもりだ。