- 『今夜も電波!』 第17回放送:2004.11.12 (fri) 22:00〜
- ゲスト: 雉さん (id:kijiq)
- 電話出演: 上山和樹さん (id:ueyamakzk)
- パーソナリティー: 百萬石マツリ (id:idiot817), 死に舞 (id:shinimai), エスパニョールカスホカトウ (id:kasuho), 追加あるかも
- 企画: 深刻20代しゃべり場 「社会人って何?」
てことで、電話出演させていただく予定です。 どういう内容になるかは、当日のお楽しみ…。
- 『今夜も電波!』 第17回放送:2004.11.12 (fri) 22:00〜
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- パーソナリティー: 百萬石マツリ (id:idiot817), 死に舞 (id:shinimai), エスパニョールカスホカトウ (id:kasuho), 追加あるかも
- 企画: 深刻20代しゃべり場 「社会人って何?」
てことで、電話出演させていただく予定です。 どういう内容になるかは、当日のお楽しみ…。
以前から気になってたこと。 雇用されたりフリーだったりで仕事してるかたの話を聞くと、必ず身近の「変な人ネタ」を持ってる。 私は雇用としてはアルバイトの経験しかないが、それでも「はぁ?!」みたいなひとを何人か目撃してる。
「職場の理不尽」というと社会派ネタっぽくなるけど、どうも「厳しい仕事場」のその「厳しさ」のかなりの部分が、なんだか異様〜〜〜ぅ な原因だったりするんじゃないのか。
106 :名無しさん@明日があるさ :04/08/20 00:57
寝坊した上司が
「なんで電話してくれなかったんだ!」と。
あんた小学生か?
しかし社会は小学生の集まりだと知るのに
それほど時間はかからなかった。
新卒のころは社会人は大人だと思っていたんだけどな。
社会に入っていけないで悩んでるのが心底バカバカしくな(ry
これ、案外冗談ネタですまないんじゃないのか。
インタビュアー : 「それが私であれ、あなたであれ、誰かが前に進み出て言う、『私はついに生きることを学びたいと願う』」*1
デリダ氏 : 生きるすべを学ぶことが「成熟」と「教育」にかかわっていることに注意せねばなりません。 誰かにぶしつけに声をかけ、ときに恫喝するような口調で「お前に生きかたを教えてやる」などと言う。 お前を一人前にしてやる、仕込んでやる、というわけです。
ハゲのオヤジは余計だが、「成熟と教育」に関する論点として大事なところだと思う。
『自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)』のなかで、東浩紀氏が現代の権力につき、「規律訓練から環境管理へ」という言い方をされていて、ずっと気になってる。
ラカン研究をされている佐々木孝次氏が著書*3の中で、あるフランス人が日本人の子供を見て「加工されていない」という意味の単語を言ったエピソードを紹介されていた(非常に強く印象に残ってる)。 規律訓練的に教育されない子供が、ナチュラルなままに「完全に管理された環境」の中に放たれる。 誰も「○○しろ」とは言わないが、逆に言えば対話的に環境と付き合うチャンスもなく、「環境の論理」は自然法則のような絶対性を装う。 斎藤環氏がどこかで、「最近の若者は変化を信じていない」と言っていたが、≪自由≫と聞くと、私はいつも「鉄の環境」と、「その檻の中に放たれた野生児」を思い出す。
私は先日から、ひきこもり問題というのは≪差別≫と≪教育≫の交点じゃないかと思いはじめてるんだが、どうだろう。
「閉じこもっている、社会参加できない、外部世界とやり合えない、現実対処できない、自分で稼げない、自己満足的である」 ―― そういう固着したイメージに「ひきこもり」というラベルが貼られ、≪差別≫の対象になる。 「かつて引きこもっていた」とすれば、「履歴書の空白」が、また差別的待遇の理由になる。 → 法を犯しているわけではないのだから、「ひきこもり」や「履歴書の空白」にもとづく差別的待遇を認めてはいけないはず。
先日触れたが、差別的排除に反対すると同時に、もちろん逆差別的に厚遇があるわけでもない。 家を脱出して(生きるために)仕事を続けていくには、必ず何らかの≪教育(訓練)≫の要因が要るはず。
斎藤環氏 vs 高岡健氏の「ひきこもりを認めるか認めないか」みたいなやり取りは、「ひきこもりを認めるのは(反・差別という意味で)とてもいいけど、で、そのあとは?」という話になって、要するにけっきょく労働の話になる。 「ひきこもり差別はいけない」という意味では斎藤氏と高岡氏の間には違いはないと思うので*1、あとは労働(稼ぐ)という形で社会と接点を作れるかどうか、という話になる【しつこいようだが、「働かねばならない」のではない。「稼がねばならない」のだ。】。 このとき、労働者の精神的健康を問題にする「精神医療」(産業カウンセリング等)は絶対に取り除けない要因だが、≪教育(訓練)≫という要因は医療ではカバーしきれないはず。 けっきょく、医療の問題まで含みこんだ上での≪労働≫の話をする必要が出てくる。 「カウンセリング」という場合にも、心理学的なものだけでなく、「ジョブ・カウンセリング」、つまり「仕事との関係」を調整するカウンセラーの存在が重要になる。
また、斎藤氏と高岡氏の争点の1つが、「家を出る」という課題が「自発的か強制的か」というものだと思うのだが*2、これは≪教育≫という要因の中に含まれるアポリアそのもの。 自発性を期待できない個人へのアプローチから強制的要因を排除したら、その個人には社会参加のチャンスがない【何度も言うが、それは事実上の「見殺し」にあたる】。 しかし、では6歳の子供にではなく35歳の(肉体的には)成人に、どのような強制的要因を課すのか? 法的には一切許されないはずだ。
樋口明彦氏によると、イギリスのニート対策は事前的(つまり若いうち)の「予防 prevention」であり、日本のそれは事後的な「措置 measure」。*3
既存の言葉でいえば「リカレント教育」ということかもしれないが、とにかく年を取っていても、なんらかの「教育や訓練」を通じて社会との接点を探る、という要因は消せないはず。 「社会に迎合するな」というスローガンは大事だが、「反対のための反対」になっていてはどうしようもない。
ここであらためて、chiki さん(id:seijotcp)が出してくださったコミュニケーション論が気になる。 ≪コミュニケーション≫の中には、「差別との戦い」も、「教育」も、「自己を動機づける訓練」すら、含まれているのではないか。
そして、「ひきこもり」の人が最も恐れ、苦手とし、不能さに苦しんでいるのが≪コミュニケーション≫ではないか。 もちろん、性的なモーメントも含め。
≪差別≫ と ≪訓練≫ を軸に考えられないかと思うんだが、ピント外れだろうか?