もちろん、「やりたいこと」などというのは戯言(ざれごと)にすぎない。生きるためにやりたくない仕事をやって、食うのが精一杯のギリギリの生活をしている人たち。
 だが、行動の前提は簡単なものにとどめておいて、ひとまず動いてみること。僕にはひきこもりというテーマが与えられているのだから、ひとまずそれでやってみる/考えてみるしかなかろう。
 結婚や子供がどうとかいうよりも、自分と母親が飢えないようにするので精一杯。俺が自殺すれば母親だけでも生きていけるかも。

退行

 自分の言語も嗜好もひどく風通しが良くなってさばけてきていると同時に、ひどく摩滅して貧困になってきているように思われる。新しい興味に向かうことも難しく、僕は10代から20代にかけて自分が熱心に取り組んできたはずの書物やテーマにふたたび向かっている。これは退行だろうか? 年齢相応の成長に懐疑的なひきこもり当事者がいつも悩まされる点だ。もう30代も半ばだというのに、自分が15歳の頃からまったく成長していないような苛立ち。僕の意識は15歳のまんま石のように固まって、そのまま干からびていく。
 石のように固まった意識の中にはなんだか熱いマグマのような部分があって、これは言葉にされる機会を待っているようだが、そんな機会にも恵まれないまま、形にする方法論も分からないまま、時間だけが過ぎてゆく。
 キーワードを通じてはてなをさまよいながら、僕は方々の日記から対象への愛や執着心が自分に憑依してくれるのを期待している。
 理論であれ芸術であれ、「作品」に触れるのは、そこから僕らが自分なりの欲望をつかむためではなかったか。みんなあまりにも品行方正で、奇怪な欲望にはなかなかお目にかかれない。奇怪であることをこれみよがしに示す自意識にはウンザリだ。

おびえ

 思えば僕は、たとえば野球の話を熱心にする人が恐かった。聞いたこともない名前が次々に出てきて、ものすごく生々しく具体的な話を展開する。どうも僕が抽象的な議論に沈潜したのは、世界にあふれる具体情報の洪水に恐怖したからではないか。その恐怖に萎縮して、ぼくの言葉はどんどん駄目になった。たぶん今、言葉の建て直しをやっている。