《制度》という概念について

本に掲載されている「はじめに」を、やや短くしたような内容。 一部を引用してみます(強調は引用者)。

 精神医療の現場では芸術療法や作業療法という名前の療法が存在しているが、それには「芸術を使って」療法を行うとか「作業を使って」療法を行うという意味がある。それと同じように、まさに「制度を使って」精神の病を治していこうという方法が「制度を使った精神療法」である。しかし「制度を使って」ということは、「芸術を使って」とか「作業を使って」ということとはかなり異なった意味を持つ。なぜなら「制度」とは療法が行われる環境それ自体であり、単なる道具としてそれを使うことは決してできないからである。この療法の基本的な考え方は、「病んだ環境では病気を治すことはできない」ということであり、したがって医師や看護師や患者がその中で仕事をして生きている環境がどのような病気に冒されているのかということを、自ら明らかにしていくことがこの療法の中身になる。制度(治療環境)の分析は、常に治療へとフィード•バックされ、両者は常に循環的関係の中にあるとも言えよう。

 すべてを柔らかくし遂には枠組みをなくしてしまえば良いと言われるかもしれない。そういう考え方は反精神医学ともよばれたことがある。日本にも政治運動の広がりの中で反精神医学の考え方は(幅はあっただろうが)存在していた。しかしすべてを柔らかくして社会全体で幻覚妄想状態に入ることはできない。しかしすべて固くしてしまうこともできない。このような精神医学と反精神医学の対決状態は、日本にもどこの国にも存在したのだが、フランスはその対立を超えるものとして「制度を使った精神療法」を維持していた感が強い。一方、日本ではその対立の着地点は明確には存在して来なかったと言えるだろう。もちろんそれぞれの素晴らしい試みは存在したのだが、制度のどこを緩めてどこを緩めないのか、その判断を明確にしてこなかったのだ。


入院後は、なぜ幻聴にふりまわされたのか考えてもらった。患者は「サッカーこそ生き甲斐という気持ちがした。今までにしたことの無い玉運びをケースワーカーに教えてもらい、ゴールが決まった時はかなりすっきりした。生きていること全てであると思えた」と言う。私は「そのような喜びを働くことや余暇に見つけようとしたのですか?」と聞いた。患者は「そうだと思う。」と振り返った。そこで私は、次のような類別をこの患者に示してみた。 「生活・社会の方へ復帰した患者はサッカーの面白みにある程度距離を取れた患者ではないか。復帰を焦って病状悪化した患者はむしろサッカーの面白みに酔った患者ではないか」。 するとその患者は「全くその通りだと思う」と言うのだった。

    • これは直接には統合失調症に関する記述だが、嗜癖的没頭の危険さは、ひきこもり(順応臨床)にとっても決定的に重要だと思う。 斎藤環的な「ひきこもりオタク化計画」は、嗜癖と役割に順応させようとすることでしかないため、ここの問題意識がすっぽり抜け落ちてしまう。 【参照1】、【参照2


 そして、はじめにどうしても言っておかなければならないことが、もう一つある。それはこの流派の考え方が、制度(環境)について議論しながら分析し工夫することを根本とすることから帰結することとして、おそらくこのこともまたフランス文化の独自性ということになるのかもしれないが、単なる実践上のノウ・ハウだけではなく、きわめて哲学的・思想的な志向をもっているということである。現象学ゲシュタルト理論、ラカン派の精神分析などに由来する様々な概念が、この流派の議論では駆使される。もちろんそれは衒学的な欲求からのものではない。制度という論点を、現場の組織論にしろ、抽象的な哲学にしろ、単一の観点からだけ見てしまうこと自体が、制度の病を生む(例えば<疎外>という重要な用語が指し示しているのはこのことである)ということをこの流派の人々が知りぬいているからである。そして、そうした議論を経た制度についての分析は、精神医療という枠組みを越えて一般的な社会環境に対する療法ともなるだろう現代社会が私たちにとって「病んでいない」環境であるなどと言えるひとはおそらく一人もいないはずだからである。



《制度》が、政治や経済だけでなく、臨床面から考察されている。
「男/女」という区切りや、「支援者/当事者」という役割区別、あるいは究極的にいえば、言語という営みそのものが《制度》にあたる。それは内側と外側を分け、正しさと逸脱を分ける。私たちが人間として、あるいは集団で生きるかぎり、その線引きからは逃げられない。それを具体的に分析し、柔軟に組み替えることで少しでも「内的/社会的」な疎外をなくしていくこと、その動きそのものを生きること。単に制度を「なくす」ことは、まやかしの主張であり、かえって抑圧を生む。
私は、「制度を使った方法論」の決定的な意義に注目しつつ、実際的な取り組みにおけるその難しさを、しっかり分節しておきたい。(そういう分節こそが私にとっての制度分析であるとも言える。)