正当化の手続き

研究者が踏襲すべき「発言の作法」と、当事者の踏襲すべきそれとは、もちろん違っている。
研究者言説が評価されるときの基準と、当事者言説が評価されるときの基準は違う。
ちがうけれども、「当事者だから」何を言っても評価され尊重されるべきだ、とは全く思わない。 当事者であることにあぐらをかくだけのくだらない言説には全く興味がない。 → 自分自身をも追い詰める。
6月のイベントで、僕は「当事者」として、樋口明彦さんは「研究者」として招かれる。 参加させていただくにあたってのパスポートが違う。 「ひきこもり経験者」という視点からは、樋口さんには資格がない。 「研究者」という視点からは、僕に資格がない。 求められている情報価値が違う。


樋口さんは、僕の当事者的な――内面吐露的な――発言についても、明確に反論をくれる。 それはいつも示唆的で、僕にとっては非常に貴重な体験になっているのだが、そもそもお互いの公的なポジションを考えれば、これはとても重要なことに思える。


当事者が自分の実存を賭けて喋ったことに、「研究者」は≪反論≫してはならないのだろうか。
当事者が勉強すべき学問もあれば、研究者が賭けている実存もあるはず。
その対話構造を探るところで、なにか硬直的な役割意識を打破できないか。