社会学を専門にされる関水徹平氏の論文を幾つか拝読*1。
なかでも論考 《「社会性」概念の再検討》*2 は、直接的に支援とかかわる。
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- 「文化的判断力喪失者 cultural/judgemental dope」は、もとの文脈でもっていた意味に留まらず、臨床実務上の機能を持ちうる概念にみえる。以前に酒井泰斗氏とのやりとりでも取り上げた(参照)。
私は、議論であれ活動であれ、「その事業が何をしようとしているか」に注目する*3。
関水氏の論考は、事業趣旨を私と共有するわけではないかもしれないが、自分の趣旨を問い直す機会になった。何が耐えられなくて考えざるを得ないか。
- 「それを考えないでどうするんだ!」を忘れるところに荒廃がある。
関連メモ
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- 《社会化される》ありかた。 マルクスの商品論では、「物の社会化」が扱われる。 交換価値になる以外に、社会化の回路が見当たらない。 売れなかった商品は、社会的に「死んでいる」。
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- 私たちは、メタ言説への嗜癖にしか、理論の回路がないかのように思い込まされている。 それは明示的宗教でなくとも、主観性のはまり込む固着したパターンとなっている。
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- 本ブログで扱う制度論的分析(analyse institutionnelle)や分裂性分析(schizoanalyse)は、超越的視点でふんぞり返ることではない。 むしろそのようなメタ性の確保(というウソ)を許さない。 論じるおのれが生きる《社会性》のスタイルに関する提案となっている。 「そうやって考えたつもりになるの、やめなよ」
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- 自分がすでに生きている社会性のスタイルを忘却したような語りや事業に激しい怒りがある。 しかしその忘却は、人間にとってやむを得ない面がある(⇒ハイデガーの「頽落」「das Man」はこの話をしている)。
先日の日本社会学会【ひきこもり (社会病理・逸脱(1))】に参加して私が質問したのは、まさにこのあたりの話だ。
正直にいうと、「社会学を研究している人たちのメンタルヘルス」があまり良くないように見えたのが、たいへん気になった。 それは、「社会学者であるかぎりにおいて押し付けられている社会性のスタイル」と、関係していないだろうか。
これは、私が激しい怒りをもって体験した調査倫理の問題(参照)と、直結しているはずだ。
*1:読んだのは、《「社会性」概念の再検討》、 《ひきこもり経験と「時間の動かなさ」》、 《社会的死の構図》、 《「引きこもり」における「参加」の困難》
*2:「日常生活の秩序は底が抜けている」こと、信頼に基づく相互行為は「暗黒の中での跳躍」であると論じたのは、浜日出夫氏の「ガーフィンケル信頼論再考」(1995年)であるとのこと。
*3:ラカン/ウリ/ガタリ/ドゥルーズと名前を並べても、実はお互いで事業趣旨がちがう。その「事業趣旨のちがい」を分析すべきだし、それは論じる側の事業趣旨を明確にすることを強いる。多くの論文は、与えられた業界事情で「通りやすい論文」を書くだけなので、この点についての再帰的分析がほとんど見られない。▼事業趣旨を再帰的に問い直すことは、社会化されるあり方を問い直すことに重なる。
*5:底の抜けた再帰性の固着は時間を生きられない。この固着を支えるため、周囲が労働=扶養(という時間化)を引き受けさせられる。この固着したシステムの総体をほぐさねばならない。
*6:どういう《時間化=主体化》を生きられるかは、個人だけの課題ではない。 すでに「歴史は終わった」とされる(F.フクヤマ)。 わかりやすい制度順応にも、わかりやすい反体制にも、たいした時間化はない。
*7:ある方によると、社会学研究者どうしで、次のような雑談エピソードがあったらしい: 「社会性があったら、社会学なんて研究してないよね」。 ここで「社会性がある」とは、苦労せずに社会順応できる、というほどの意味だろう。うまく順応できないゆえに、「何が起こっているのか」を問い直さざるを得ない、と。▼とはいえ社会学が、居場所づくりの口実でしかないなら、それは「社会学をやる」という形で固定された「社会性に見えるもの」をアリバイにしたにすぎない。そこではさほど、社会性は再帰的に生きられていない。