- 作者: マーシャ・ガッセン,青木薫
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/11/12
- メディア: ハードカバー
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やや現世的な感想
- 社会がイヤになる理由は政治だが、人に関わる理由が残されるとしたら、政治しかない。
- 全体主義のなかで、数学は厳密さを保った(p.44)。 しかし数学も、「集団の問題」から逃げられない(参照)。
- 数学の論文ですら、メディア事情が命運を決める(p.235)。 臨床に関わる者が情報媒体の問題を考えないのは話にならない。
- どの制度*1を残してどの制度を解体するか。 そこに利害と臨床がある。
- たとえば「民族」という制度はなくすべきだが*2、数学という制度はなくせない。
- そもそも「宗教」は、数十億人が同時に支持している。とても変えられない。
興味があるかどうかは、その問題が解ける可能性が多少ともあるかどうかで決まるんです。(ペレルマン、p.175)
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- このままではまずいと誰もが思うのに、どの回路で何を変えれば少しでも良くなるかが分からない。 妥協と無関心と、ゴネ得だけが進んでゆく。 「どうせ不完全な審判しかいないから、真剣に考えた人間の負け」
ややSF的な感想
- 人間という現象の能力をいくら高めても、どうにもならないのでは。 退屈で残酷な現世への監禁。
- 量子がどうとか言っても、意思決定に別原理を出せるのでないかぎり、何も変わらない*5。 発話や証拠確認の手続きをすっ飛ばして(議会や裁判なしに)決められる現象になるには。
- 「お金儲けだけの社会はまずい」と19世紀には気づかれていたのに、「じゃあ計画しよう」としたら、権力機構そのものが大量虐殺装置になった。人間という現象は、集団的意思決定という契機を抱えているゆえに、これからも苦しめ合う。
- 人類史レベルでの青写真を探している。
*1:「社会保障制度」みたいなものだけでなく、精神的な努力パターンも《制度》として考える議論があります(参照)。
*2:そもそも《民族》という差別的発想そのものを、人類史レベルで批判すべき(「大阪人」と「東京人」みたいなもの)。とはいえ、地球政府レベルで考えないと無理。また少数派じしんが、「自分たちは○○民族だ」として、そこにアイデンティティのよすがを賭けてしまったりする。
*3:「It is not people who break ethical standards who are regarded as aliens. It is people like me who are isolated.」(Grigori Perelman,Wikipedia)
*4:彼の辞職・隠遁(2005年12月p.250)が、中国人の論文騒ぎ(2006年4〜6月p.252-254)が起こる前だったことを確認でき、少しホッとした。(彼の受けたダメージが、思っていたよりも少しだけ小さい気がした)