逸脱した人間どうしの関係性は、剥き出しのヒリヒリ同士になる。

制度に守られていないから。
そして、社会順応している人からは、簡単に見下されてしまう*1
関係性を築こうとするときは、いつの間にか信じ込んでいる「関係性のパターン」を、お互いに呼び出して押し付け合っている。 関係性について考えれば考えるほど、人とかかわることは《暴力の相関》そのものだ*2

*1:会社や大学などの分かりやすい制度だけでなく、「医学」「文学」など、努力方針が既存社会で確固たるジャンル形成をしている場合、それを標榜したほうが「体制側」として支持されやすくなる。 ▼運動体のイデオロギーも、そういう《体制側》として機能する。それへの批判を始めてしまうと、イデオロギーに乗っかることで関係形成を始めた人たちとは、折り合えなくなる。

*2:だから、ネットであれどこであれ、慎重になりたいし、なってほしい。

社会に継続的に参加できるとは、継続的に振るえる権力を維持できるということ。

「仲良くなる」ことが目的なのではなくて、権力の担い手として仕事を維持できるようになること。
自分の正しさを当たり前だと思っている人は、みずからが暴力の担い手になっていることに気づかない。 100%正しいことにされてしまった暴力は、暴力と呼ばれないから。

不確実さと権力

ものすごく参考になりました。 関連することをもう少し勉強したいし、これから何度も立ち返って考えたいのですが、とりあえずメモとして(以下、強調は引用者)

 ある人が意思決定をしなければならない場合というのは、結果の不確実性がある場合です。もし不確実性がなければ、上司と部下の判断は常に一致するので、そもそも意思決定をする必要はありません。 (略)

 もし意思決定権がグループの成員に均等に配分されている場合、話し合いで決着をつける必要がありますが、大きな組織だと決定コストが膨大になるのでたいていはヒエラルキーにして、意思決定権を不均等に分配することになります。そして意思決定権は能力に応じて配分されるのが効率的になります。 (略)

 多くの場合、「あの人には権力がある」というときは、能力を超えた決定権が与えられている場合、あるいは適切な判断が何かを審査する手続きをせずに決定をする権限が与えられている場合を指していると思います。つまり何らかの「不適切さ」(不公平、非効率等)が含意されています。 (略)

 「選択肢の中から選択させる」のも権力だけど、「選択肢を作る」のも権力だ、ということです。 人々の行為が構造を作るのではなく、行為がすでにできあがっている構造をなぞる形で行われる、という社会学的な行為の見方からすれば、権力を制度化の力として考えることは自然に出てくるアイディアでしょう。制度を作って人々がそれを前提に行為するようになってしまうと、たとえそれが個人にとって不利なことでも、制度を変えるコストの方が上回ってしまって、結局権力者の都合のいいようにみんな行動してしまうわけです。



制度を使った方法論」では、単独的に表明される意見一つひとつが、制度改編という権力行為をそのつど要求している。しかもそれが乱立する。
制度を変えるにはコストがかかるし効果も分からないから慎重な合意形成が必要だが、「制度を使った方法論」そのものに合意形成の手続きがなく、ただ「受け入れてくれるのが当然」と言い合うような、むき出しの議論を続けるしかない*1
これでは、既存制度への順応者が圧倒的に強い。 コストをかけずに、とりあえずは自分への同意を要求することができるから。


デリダは、計算可能なものや規則とは別のものとして《正義》を掲げていたが(参照)、「計算不可能なものに関わろうとすることが正義」というのは分かるとして、その正義を主張する人が複数いる場面で、意思決定はどうするんだろう。



*1:野生の関係性に投げ込まれれば、あっという間にもみくちゃになる。