《プロセスの中心化》 = 当事者化

親にも学者にも厚労省にも、生きることを内側から引き受ける事情についての方法論が全くない。 いきなり「ひきこもりをなんとかせねば」と始まるか、人生論ですませてしまう。 「いきなり問題を扱う」ことには、問題そのものの領野はあっても、引き受けるプロセスの硬直*1は絶対に問題化されない。 その硬直こそが、臨床として主題化されねばならないのに。 臨床を置き去りにしてメタに語ってどうするのか。
「まじめにやる気があれば出来るはずだ」ではなく、むしろ知的に誠実な人にこそ、アレルギー的拒絶が生じるかもしれない*2。――この事情に照準するのが、《プロセスの中心化》という臨床的・政治的モチーフにあたる。 分析=分節の過程として中心化されたプロセスは、もんだいを内側から引き受ける当事者であり*3、「制度を使った精神療法」の核心にあたる。
臨床と政治という両ジャンルは、別々に参照するものではない。 政治哲学*4を欠いた臨床は有害ですらあり、臨床を無視した政治哲学は、自分という言説の実現過程に気づいていない。

現在の私の焦点:

    • 臨床的要請としての 《プロセスの中心化=当事者化》 を、法学や政治哲学の文脈で説明する。
    • 《プロセスの中心化=当事者化》 を生きつつ、そのための環境改善に努める。 現状では、《当事者化=分析》を試みた人間が孤立して排除される。

これは、知的というよりは現場的な課題であり、「制度を使った精神療法」から恩恵を受けた私の、症候的反応だとも言える(参照)。 人の社会参加のカギと鬼門が中間集団にある以上、「中間集団が大事だ」とメタに語って済ませるわけにはいかない。


メタな保証のない引き受け努力は、プロセスを中心化する分析努力として、「命がけの飛躍」*5として遂行される。 「社会化=価値実現」の焦点は、「結果的に売れた地点」ではなく、分節の営みとして実現される過程にある疎外論*6。 社会性と公共精神の最大限の発揮であるこの過程は、嗜癖に支配された社会では真っ先に否定され、社会化されない。
真摯な分析過程として自己を実現すればするほど、社会参加ができなくなる。 社会化されるべきものが社会化されないところに、過程への抑圧がある*7



*1:斎藤環が、「再帰性」「自由の障碍」といった言葉で表現したもの

*2:社会的ひきこもりに関わるこの困難を、三脇康生「斜め性が入門拒否症になる」と1フレーズで表現している。 「斜め性」とは、これまで「横断性」と訳されていたガタリの「transversalité(トランスヴェリサリテ)」の訳語として、三脇が新たに提出したものだ(詳しい解説は『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.27を参照)。 ▼単にメタに語る人たちは、内側からすでに何かを引き受けおおせているのだ。 彼らは、うまくいった自分を事後的に確認して悦に入るだけで、目の前でうまくいっていない事例について、過程を問題にすることができない。 “客観的” 記述への居直りは、過程のモチーフを抑圧する――ベタな “ふれあい” への居直りと同様に。

*3:《当事者》は、最初から法的/政治的な、社会思想を参照せずにはいられない概念枠だが、私はそれを、同時に臨床的な方法論として検討している。 ▼政治や法では、スタティックな身分としての当事者が問題になる。 しかし臨床的-政治的には、実現される過程としての当事者が問題になる。 この「過程としての当事者化」は、単にニーズを表明すること(上野千鶴子)ではなく、分節の労苦そのものだ。

*4:この場合の「政治哲学」は、再分配がどうこうではなくて、まずは各人が巻き込まれているローカルな関係のマネジメントを問題にしている。

*5:商品の価値が実現される過程について、マルクスが使った表現(参照)。 売れなかった商品は、商品ですらない。

*6:過程論が疎外を問題にしていることについては、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.238 で少しだけ触れている。

*7:ドゥルーズらのいう「欲望機械」は、過程として実現される。 欲望の生産は、過程として遂行的に実現されるのであって、静態的な構造が反復されるのを確認していればいいのではない。